2019年 1月 12日(土曜日)
賢くありたいあなた達、愚直でありたいぼく
ダブスタ指摘系のツイートを見るのが好きだ。ツイッターやってることの醍醐味のひとつになってきている。「さあ!少しばかりの頭の体操です!」って感じでそのダブスタ指摘を「全然ダブスタでもない」とか「そもそもの問いの立て方が間違っていて、その系に関しては別の論理がある」というように崩すのが楽しい。崩せると「どうだパワーがたまって来ただろう」とストレッチマンの声と顔が意識に広がる。
例えば、「ジャズは自由だと言う人ほどあれはジャズじゃないと言いたがる」というツイートがあったとしてぼくは即座に「そもそもジャズかどうかなんてのは主観的な話にしかなりにくいのではないか。つまり所謂ひとつの『個人的な視点』から、そう、彼、彼女からしたらあまりにも不自由に感じてしまうジャズテイストの音楽があって、それに対して溢れんばかりのジャズ愛から『これはジャズではない』と判断したのなら、ジャズ=自由の論理に矛盾はないだろう」と浮かんだ。
このツイートは個人の主観でしかない「ジャズとは何か」というものへ目配せをした大変にチャレンジングなツイートであり、ってここまで書いていて馬鹿らしくなった。
わざとこういう書き方してきましたけど、他人をこうやって諭した感じになってるのがもう最悪じゃないですか。大体そもそもおもしろくない話でこうやって論を展開することがつまんないし、こうなってくると、当たり前にどんどん音楽そのものから離れていくだけで、他人とのマウントの取り合いになって自分の感性というか欲求や実感が鈍っていく音が聞こえてくるような気がするんですよ。なんかポストモダン的なイメージの罠にどんどんハマるというか。全然嫌いですよ、ダブスタのツイートなんか読むの。目にもしたくない。
何十年も積もってきたなんだかんだ自分の欲求になってきたものから生まれた感性とか実感、それを見つめることなくすてるなんてとんでもない!
にしても、特にネトウヨとか呼ばれてる方々のダブスタ指摘系の香ばしさというのか、そういうぼくなんかは「アホやな」ってストレートに思うのだけど、「この系に関しては指摘した論理の外にいかなる論理も存在しないッ!!!!論破ッ!!!!!!」みたいなイキり方がどうにもしんどいというか、キーボード叩いている人間のリアルな生活のしんどさまで見えるようでなんだかんだキツいなあと思うのだった。だって、そういう見方して日々職場に行き人と話して関係築いてるんでしょ。近くにいて欲しくないもの。
2019年 1月 11日(金曜日)
帰宅後にマジな感じの全身倦怠感がきてインフルエンザに罹患したかと思った
飯食っても本当にしんどくて風呂入って回復したかと思ったら、熱っぽさまできて「ついに‥‥」って絶望した。でも寝たらなんともなくなった。
小学校の同級生が「寝たら治る!!!」ってよく言ってたのを思い出した。寝ても直らなかったら病院行けよ。これから寝ても不定愁訴が治らない身体になっていくんだろうな。病気になることと健康のその境を破る発病というのがとにかく怖い。
コミュ障のなのかめんどくさがりなのか
職場の上司に「ホウレンソウ」という例の「報告、連絡、相談」がまったくできない人がいる。ホウレンソウと言ったところで彼は上司な訳だから「相談」は免除される。その代わりに「決断」しなくてはならないのだけど。しっかし、その全部ができない。そのくせ「ほーら、見たことか」という感じでこっちの仕事に口を出してくるので大変に嫌われている。ぼくも「こいつ、猫のうんこがたくさん埋葬されているような砂場に生きたまま埋めたいな」とよく思う。自分の好きなことになると延々と喋りかけてくる感じも本当に嫌いなので、前世は便所のボールとかだったんだと思う。ひたすらションベンかけられる苦行。滝行ならぬ尿行。しかも男のやつ。そんな前世で溜まりに溜まったシュウ酸カルシウムでなく鬱憤が今生で爆発!!!
ここで短歌を。
便所のボールにションベンかけたから
うんこももりもり便所のボール記念日
人の趣味
たまに「あんなの好きなのは男の影響だ!」って感じで他人に牙を剥く人いるけど、そういうこと言う奴こそ「女性があまり踏み込まない趣味のある女=男の影響」という図式を誰かから受けてることに気付いた方がいい。でないと、あまりにも頭が悪いことになる。
「他人の趣味を腐してねえで、もっと自由に生きろよ」
とぼくは思います。趣味は人を救うよ。しかも、それがたくさんあればあるほど、たくさんなくても深くハマってるものがあればいいんですよ。
そういうのが分からない人にそんな風に揶揄されても「あんたって他人の視線感じてそれに従わないと自分の好きなことや趣味すら決めれないのね。もしかして趣味は奴隷なんですか」としか思いませんよ。って電車で聞いた会話から思った。
2019年 1月 10日(木曜日)
起きたら14時34分だった怪
洗濯して掃除して茶碗とかの洗い物してそいうのがひと段落したら16時回ってしまった。
不意に切れてしまったキッチンペーパーを買うことと野菜中心の晩御飯を考えることを至上命題にして買い物。ドラッグストアでレジの列に並ぼうとしたら、同じく並ぼうとしていたおばさんと競争になる。なんとか勝つも後ろに並んだおばさんになんかめちゃくちゃ物入ってるカゴでケツをどつかれる形に。流石に睨んでやった。レジですげえめんどくさそうなこと薬剤師呼んでやってたから勝ててよかった。
アウターをユニクロで済ませられる人生を行きたいと最近思う。特に近所を出歩くときに。でもやっぱり街行く人を見てると、ユニクロのアウターのそのくたり具合にそんな気持ちは藁の家より軽く吹き飛ばされて脳裏にフレッドペリーのカーディガンが浮かんで沈まない日に。
人生を感じる瞬間
たまにこういう似たようなシチュエーションの悪夢を見る。なにも勉強していないのに明日が入試本番的なやつ。さすがにこの質問、釣りであって欲しい。浪人9月でマークの英語2割とかありえないし。狙うべきは大阪経済法科大学なのでは。それですら落ちそうだけど。
むかっしからニューエラ似合わねんだ
先月、ニューエラのラップサックが欲しくなり欲しくなった瞬間から即座に買ってからとても便利で重宝している。とにかく両手が開くというのが世界最速とか世界制覇並みにすごい。電車で座りたいと思わなくなった。立ったまま本を読むのことがなんの不便さもないからだ。
「どうして欲しくなったのか」ということを思うと、それはなんとなくニューエラのキャップと合わせたいからなんだろうなって思っていたのだけど、どうやらそれだけが決定的な理由でないことに気付いてきた。『メジャーセカンド』を読んでいて佐藤光を見ていて欲しくなった気がしてならない。
『メジャーセカンド』を読んでいてなんだかとても佐藤光に共感する。そしてまったく自分にはないものをもったキャラクターとして写る佐藤光に憧れる自分がいる。色々あるのにも関わらず他人の前ではとても明るいのがとにかくいい。理由はまだまだ全然詳しく言葉にできないのだけれど、ぼくにとってこのリトルリーグ編の楽しみの60パーセントくらいが佐藤光にある。
2019年 1月 9日 (水曜日)
人生初のCD売却
デラックスとかレコードで持ってたりする希少価値もまったく無いような平凡でそれこそもう全然要らないCD16枚と中学生のころのフリマで拾ったボロボロのレコードを2枚、計18枚をディスクユニオンで売った。買取価格20%上乗せみたいなキャンペーンをしていたので9,000円になった。レコードにはそれは適用されなかった。
Apple Music以降CDなんかプレイヤーごとほぼ触ることすらなくなった。思い出も特になく収納的に棚を本に割きたいのでどうしても邪魔になるCDがこうやって金に変わるのはなんかアツい。どんどん売りたいと思った。CDは売っても良さそうなのが1,000枚くらいあるんだから。
9,000円で新しいシャツを買おうかな。どうしようかなあ。うへへへへへ。新しい服買うのって一番精神的にいい買い物ですよね。
いつ死んでもいい、きょうでなければ
NHKのEテレでたまにやっているエッセイを読み上げる「ヨーコさん」が好きで、たまたまやってると嬉しくなる。今日は「いつ死んでもいい。きょうでなければ」って言葉にグッときた。なにかが閉じないような、絶対的なものに対してちょっと不遜にわがままな感じもいい。何かを言い切って結論を言い切ったような気分のする言葉よりも、こういうなにかが閉じないような言葉にぼくは気持ちが軽くなる。この元になったエッセイが欲しい。
朝9時30分にスキップをして歩いている60代くらいのおばちゃんを見た。あれは天使だったんじゃないかと思っている。ぼくはついに天使を見てしまった。
通勤電車の怪
阪急淡路駅というのは不思議な駅で、まあそんなこと書いてるぼくもこの駅との付き合いは長く15年くらいになるのだけど、特急電車が普通電車を待つという大変に奇っ怪で特急電車に乗っている人間にはストレスフルでしかない現象が起こるのだ。特急梅田は北千里線からやってくる普通天下茶屋を3分程度待つのである。長いときはもっと待ってるんじゃなかろうか。
しかし、こうやって書くとこの待ち方は普通電車に乗ってきた方々には大変に喜ばしいことだと思われるかもしれないがそうではなく、普通天下茶屋がホームに着き「さ、ドアが開くぞ」というタイミングで特急梅田はドアが締まり発車するという「全員負け!!!!!!」みたいな大変に奇っ怪な現象なのである。
きょうもその現象は起きてしまった。この現象に出会う度にぼくは思うのだ。「株主にでもなって総会で是非この件に関して意見したい」と。きょうも思った。でも、梅田に着いて改札を宝塚線寄りで出てアズナスに入ってスムージーをレジに持って行ったらいつもいてる愛想の悪い40代のおっさんだったときに完全に忘れる。あの人のことを「宝くじが当たって片手間に働いてる中度の遊民」とぼくは勝手に設定している。あそこのアズナスはフォーク並びを推奨してないのがムカつくのだった。平等万歳!!!!
無言の人々
人になにかを察してもらわないと欲しいものが言えない、動けない人が嫌いだ。
列にちゃんと並べてないのに列に並んでることの縄張り意識みたいなのが強いのかそいつの後ろに並ぶと並んでるアピールみたいなことしてくるやつが嫌いだ。
人が立ってるところを通るときに「すみません」とか言えない人が嫌いだ。
そうやって無理矢理通りながらさらに汚いリュックまでぶつけてくる人が嫌いだ。
きょうそういう人に全部出会った。ロイヤルストレートフラッシュだと思った。社会は嫌いだけど、挨拶とかホウレンソウとかできない人間はもっと嫌いだ。逆にそういうことができる人には好感しか持てないみたいなことになる。
みんななんとも冴えない太った男だった。おかあさんがダイエーの二階で買ったみたいな服装で1000円カットみたいな頭してて、そこは3カードって感じ。
2019年 1月 8日(火曜日)
きょうは少し暖かくて天気良かったっすねー。
今まで結構オンライン上に日記を書くの失敗してきたけど、今日で三日目。なんか今回全然行けそうな気がする。
いずみのシャツ、オアシスですね。
思わずツイッターに投稿しそうになった。
野菜炒めを作るのに肉がなかったので最寄りスーパーへ買いに行くと、店員が無言でレジをしてくれたことからの連関
近所のスーパー、仮にA店としておきましょうか、の昼間のレジの店員が嫌いだ。行くたびに嫌な気分になる。簡単に書くと機嫌が悪いというか態度が悪い。全員ではない。4割くらいだ。基本的に終始無言であってポイントカードを出しても受け取ってくれないし、いくら預かったかも言わない、釣り銭も投げるように渡す。なのでぼくも無言のままレジを済ます。いや、つい最近までは釣り銭を受け取る時に「ありがとうございます」と元気に言っていたのだけどもう心が折れたのだ。
そんなアナキーなレジ店員も袋詰めに関してはやってくれるのだった。しかし、これがまたレジが渋滞する原因でもあってウザい。それに基本的なステータスとして店員の態度が悪いのでその場を早く離れたいぼくとしては袋詰めの時間がこれまた大変にじれったいのだ。そんな感じならば行かなければいいのだが最寄り徒歩1分の利便には勝てないのだ。しかし、さすがに行かなくなってきた。
とは言え、「レジ店員に態度なんか求めなくていい」と思っている自分もいるのだ。大阪府で時給940円だかで働いている人に素晴らしい態度までを求めるのは酷な話なのだ。別にやりたい仕事でもなかろうに。もっとステキなワタシは別の場所にいるんですよ、的な。なのでその観点からは「近所のレジ店員の態度は全然間違ってはいない」とも言えるわけで、やはりそれは現代社会に向けたアナキーなレジスタンスなのである。
だけど、「ぼくの気分が悪くなるのはどうも自分の扱いが悪いからではないようだ」と気付いたのは徒歩8分のスーパー、仮にB店としておきましょうか、の店員さんがみんな優しくて「ありがとう」という言葉が心の底から本当の気持ちとして出てくることに気付いたからだ。
つまり、どうしてもA店の奴らがサボってるように思えるのだ。しかもそれはどうやら業務どうこうではない部分である気がするのだ。もっと手前のことというか。
そうなるとこれは根が深い気がする。ぼくのA店に対してのみの心象の問題ならばぼくが解決すればいい。しかし、同じ業務、同じ時給でまったくその態度のみ違うというのはもはや個人の問題ではないような気がするのだった。社会の問題……。核家族化の成れの果て……!なああああんて、大風呂敷広げないよ。
これはあくまでもぼくという人間の感性の問題だ、としておく。というか、どんな人間として他人の前でいたいかという問題で、やっぱりぼくは愛想が悪い、機嫌が悪いということを表に出してそれを他人にまで強要する人間を「悪」だと思っているのだ。しかも究極の悪だと。もう業務の話ですらない。それ以前の問題である。
レジをするのにスマホをいじるとか服装がどうそんなことをぼくはなんとも思わない。ぼくなんか、前にも書いたけど、職場のwi-fiでNetflixを観ながら仕事をすることがあるんだから、そういう意味で緩い世の中になることをぼくは歓迎する。そう言えば、この前もM-1翌日のセブンイレブンで店員さんが品出ししながら各コンビの寸評を楽しそうに喋っているのを思わず聞き込んでしまった。
電車の話
電車に乗ろうと並んでいた。一番前に並んでいた。電車がやってくる。ぶっちゃけ座りたいわけでもなかった。電車が止まる、席が空いているのが見える、ドアが開く、人が降りてくる、それを待っ‥‥。後ろに並んでいた20代くらいの女が降りてる人をかき分けて乗り込み座る。そうなると、さほど座りたくもなかったのにも関わらず座れなかったこと、否、席を不当に横取りされたという感覚が生まれてきて無性に腹が立ってくる。人間ってまあ不思議です。
パン屋のチーズバーガー
行きつけのパン屋の新製品のチーズバーガーが美味い。260円。マクドのダブルチーズバーガーくらい美味い。
恐怖を他人に与えることは何も生まない
今日、なんか関心した言葉。
追記
なんかめちゃくちゃミスチルが聴きたい。骨と肉のベスト盤。つーか、イノセントワールド。ゴーンが「I am innocent」と言ったってニュースで観てから頭の中で鳴ってやがるルルルルルルル。物憂げな六月の雨に打たれてー。
2019年 1月 7日 (月曜日)
どこまで近付くことができるのか、なんて思いながら間をつめていきつつiPhoneを向けて写真を撮る。あまり邪魔をするのもよくないので「こんだけ撮れたら十分」と思ったので踵を返して離れる。結局、ぼくが動くに連れて身体の向きを変えども飛び立つことはなかった。これはアオサギだろうか。
ポルノグラフィティ「メリッサ」
「さあ錠の落ちる音で終わらせて」
このラインがこう聞こえる。
「さあ城の落ちる音で終わらせて」
サッカーの城という選手が生卵を投げつけられたシーンが浮かぶ。続いて城が落城するのシーンも。
あと、こうやって書いていると、
「さあ嬢の堕ちる音で終わらせて」
という解釈が浮かんでしまう。
キャバ嬢が結局金で客に抱かれる、風俗嬢が客にせがまれた本番行為で完璧にイカされて堕ちる、というなんとも言えない寝取られマンガのような猥雑な感情が湧いてくる。
メリッサ、むかしカラオケでよく歌ったなあ。
早川義夫(2002)『たましいの場所』晶文社
このエッセイを読んでいると「自分のことを素直に見つめる大事さ」に思い至る。そして、「自分を見つめることは自分を認めること」であると思うと、「個として生きる」ということへの具体的な実感が湧いてくる。自分という場所なのかなんなのかわからないけれど、内面というかこころというか、それこそ「たましい」というか、今ずっと動きっぱなしのこの感情の場所からなにかに触れたときの、気持ち、想い、それが「実感」というものなのだろう。それを誤魔化してはいけない。なにかを作る時には「実感」から始める必要が必ずある、という手応えがぼくにはずっとある。当たり前のことなのだけど、人はどうしてもそうはならないことをぼくは自分自身の経験で嫌なほど分かっている。
そう、人間というのは時に感じたことを検閲をもする。「こんなことを思うのは、不謹慎だ・カッコ悪い・馬鹿にされる」なんてことが過ぎり、無難さが優先され自分が個ではなく社会のようなところへ吸い込まれていく。会社でする会話なんてそんな会話ばっかりだ。社会の用意したテンプレートの切り張りの会話。マナーとか作法というのは、性格も様々な数多の構成員を抱える社会において個々人のコミュニケーションのストレスを軽減する「システム」なのだろう。度量衡の器や尺度を統一する的な。そこを統一しないと物事が滞るのだろう。要はそのシステムは最大公約数なわけで、つまらなくて当然ではあるのだ。はみ出す人が悪いわけでもないし、そういう人がいて当然なのだ。みんながシステムをインストールして稼働できるわけではない。ある集団から見てずっと枠外のような感じで生きてきたぼくにはシステムを内面化できない人に想いを寄せてしまう。
しかしそれでもどこかで聞いたことのあるようなツッコミとボケ、フリ、返し。みんなテレビの芸人のように気の利いたことを言いたくて仕方ないように話す。そんなことを書いてるぼくもそうだ。仕方がないのか。会社は社会の最前線で、社会を壊すようなシステムなんて推奨されないんだからその社会を構成しているシステムに寄せていればいい。「本当にそれでいいのか?」「それでいいのだ。」という自問の繰り返し。そのつまらなさにどうしても気が滅入る。更にそこで上手いこと話してやろうと、相手を関心させてやろうとしていた自分、つまり評価をシステムに預けようとした自分を思い出し、帰りの電車で気分が沈んでどんよりして車内が混んでることにイライラする。案外、内面化できてしまっている。権威に弱い。これこそ「汚れっちまった悲しみ」なのではないか。そして、悲しみは外部に転嫁され、車内の人間すべてが凡庸にしか生きられないテンプレ人間だと考えてしまってどんどん腹が立ってくる。iPhoneのApple Musicで聴いてる音楽のボリュームを上げる。「テンプレ人間には分からねえだろ、この曲の良さは」なんて思ってしまっている。とてもくだらない不幸な話だ。
たましいを売らない。個として生きる。とても難しそうだけどぼくはそれにどうしても憧れる。もっと自分の実感から物事について考えていきたい。そうしてそれをたくさんストックして自分のたましいを満たしたい。そうして死んで行きたい。『たましいの場所』はぼくをゆっくりと感動させてくれたのだった。
『たましいの場所』はカバーがいいのでブックカバーをせずに持ち歩いて読んでいた。このわんこはエッセイに出てくるチャコなのだろうか。
『生きがいは 愛しあうことだけ』のカバーでも同じわんこが4羽の黒い鳥を目の前にして振り向きざまのようなポーズでナイスな表情をしていてたまらない。「なんなん、こいつら」みたいなアフレコがしたくなる。
あと『心が見えてくるまで』は嬉しそうに散歩をしている。
わんこ三部作なのだ。次は『生きがいは 愛しあうことだけ』を読もうと思う。カバーの織り込みのところで紹介されていた曽我部さんの『昨日・今日・明日』も読みたい。単行本をあまり読まずに借りっぱなしなのを思い出した。
2019年 1月 6日 (日曜日)
ツイッターを辞める
ツイッターで百なんとかって人間が東アジアの国々に対してヘイトをそれなりに撒き散らしているのは知っていたけど、さすがに韓国への今回の件でぼくはキレてしまった。ああいう発言を何度もしているのに凍結等の判断を下さないツイッターにも大変に腹が立つのであって、百なんとかのアカウントが凍結されるまではツイッターを辞めようと思い、触っていない。
満田拓也『メジャー・セカンド』
MAJOR 2nd(メジャーセカンド) (1) (少年サンデーコミックス)
- 作者: 満田拓也
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2015/06/12
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主人公の大吾を見ていると今の日本人のメンタリティーの典型のように思えてくる。それがモチーフなのではないかと思えてくるくらいに。
例えば、システムがよく分からない初見の店に行くとする。そこで分からないことを店員に訊くのではなく、なんとなくもじもじしてると店員が察して案内してくれる。客は「分かってた」という顔をして席に着く。ぼく自身はせっかちなのでそういうことはしないのだけど、そういう光景はよく見る。大吾の野球を辞めた感じがそれとオーバーラップする。
要は、かっこ悪くなれない、恥を出来るだけかきたくない。
何故そう思うのか。簡単な話で、この国の社会には物が溢れているのが当たり前のことだからだ。それを生まれた頃から当たり前に享受していると、分からないことは恥になるからだ。
君の消費行動がどうなっているか考えてみればいい。「個人の欲望というのは他人のそれから生まれる」「男の願望がアイドルやグラビアアイドルの外見の流行りを決める」という基礎知識でもって見つめ直してみるといい。
「え?そんなことも知らないの?」
そう言われることをみんながとても怖がっているから、情弱という言葉は広まったのだろう。
情弱は進化した。ぼくたちの内面へと更に一歩踏み込んでくる。「コスパ」という言葉で。
「コスパ」という言葉は怖い。ただ情弱でいることでは済まされない表現である。情弱に何かがプラスされている。なんだろうか。より能動的な態度を求められるというか、自己責任感が増すというか。
「常に相対的な何かに曝されていて損切りをして生きている」という、HP(体力というか存在そのもの)やMP(精神というか内面)を摩耗していくような気配をぼくは「コスパ」という言葉から感じる。要は、せせこましいのである。
話が誇大妄想化してしまった。しかし、観たり読んだり聴いたりすることはどんどんなにかの考えが生まれるということではないか。対象からどんどん離れても別にいいのではないか。だからおもしろいのではないか、観たり読んだり聴いたりすることは。
メジャーリーガーの2世で野球に関して素晴らしい環境があるにも関わらず、それが故に周囲の目を気にするあまり内面化し過ぎて野球に対してどうしようもなくなった大吾。彼の対になっているのが、これまた2世で帰国子女の佐藤光であり、その性格は大変に対照的だ。なのでぼくはそういう妄想が捗るのだ。
って、まだ二巻までしか読んでないんだけど。でも、実のところ内省的でせせこましいやつはキャッチャーに向いているのではないか。
早川義夫(2002)『たましいの場所』 晶文社.
「別に僕の過去が輝いていたわけではないが、時々、過去の歌を評価されると、もちろん、嫌ではないけれど、必ず今の自分に突き当たる。」p.184
マルクス・ガブリエル(2018)『なぜ世界は存在しないのか』講談社.
「つまり数多くの小世界は存在していても、それらすべてを包摂するひとつの世界は存在していません。これは、数多くの小世界がひとつの世界にたいする多様な視点にすぎないということでは断じてありません。むしろ数多くの小世界だけがーまさしくそれらだけがー存在しているということにほかなりません。それらの世界は現実に存在しているのであって、わたしの想像のなかにだけ存在しているのではありません。」p.20