A Better Place To Pray

I'm singing out my revolution song like nothing else matters

2019年 1月 7日 (月曜日)

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どこまで近付くことができるのか、なんて思いながら間をつめていきつつiPhoneを向けて写真を撮る。あまり邪魔をするのもよくないので「こんだけ撮れたら十分」と思ったので踵を返して離れる。結局、ぼくが動くに連れて身体の向きを変えども飛び立つことはなかった。これはアオサギだろうか。

 

  ポルノグラフィティ「メリッサ」

 

メリッサ

メリッサ

                                                「さあ錠の落ちる音で終わらせて」

このラインがこう聞こえる。

                                                「さあ城の落ちる音で終わらせて」

サッカーの城という選手が生卵を投げつけられたシーンが浮かぶ。続いて城が落城するのシーンも。

 

あと、こうやって書いていると、

                                                「さあ嬢の堕ちる音で終わらせて」

という解釈が浮かんでしまう。

キャバ嬢が結局金で客に抱かれる、風俗嬢が客にせがまれた本番行為で完璧にイカされて堕ちる、というなんとも言えない寝取られマンガのような猥雑な感情が湧いてくる。

 

メリッサ、むかしカラオケでよく歌ったなあ。

 

  早川義夫(2002)『たましいの場所』晶文社

 

たましいの場所 (ちくま文庫)

たましいの場所 (ちくま文庫)

 

 

  このエッセイを読んでいると「自分のことを素直に見つめる大事さ」に思い至る。そして、「自分を見つめることは自分を認めること」であると思うと、「個として生きる」ということへの具体的な実感が湧いてくる。自分という場所なのかなんなのかわからないけれど、内面というかこころというか、それこそ「たましい」というか、今ずっと動きっぱなしのこの感情の場所からなにかに触れたときの、気持ち、想い、それが「実感」というものなのだろう。それを誤魔化してはいけない。なにかを作る時には「実感」から始める必要が必ずある、という手応えがぼくにはずっとある。当たり前のことなのだけど、人はどうしてもそうはならないことをぼくは自分自身の経験で嫌なほど分かっている。

そう、人間というのは時に感じたことを検閲をもする。「こんなことを思うのは、不謹慎だ・カッコ悪い・馬鹿にされる」なんてことが過ぎり、無難さが優先され自分が個ではなく社会のようなところへ吸い込まれていく。会社でする会話なんてそんな会話ばっかりだ。社会の用意したテンプレートの切り張りの会話。マナーとか作法というのは、性格も様々な数多の構成員を抱える社会において個々人のコミュニケーションのストレスを軽減する「システム」なのだろう。度量衡の器や尺度を統一する的な。そこを統一しないと物事が滞るのだろう。要はそのシステムは最大公約数なわけで、つまらなくて当然ではあるのだ。はみ出す人が悪いわけでもないし、そういう人がいて当然なのだ。みんながシステムをインストールして稼働できるわけではない。ある集団から見てずっと枠外のような感じで生きてきたぼくにはシステムを内面化できない人に想いを寄せてしまう。

しかしそれでもどこかで聞いたことのあるようなツッコミとボケ、フリ、返し。みんなテレビの芸人のように気の利いたことを言いたくて仕方ないように話す。そんなことを書いてるぼくもそうだ。仕方がないのか。会社は社会の最前線で、社会を壊すようなシステムなんて推奨されないんだからその社会を構成しているシステムに寄せていればいい。「本当にそれでいいのか?」「それでいいのだ。」という自問の繰り返し。そのつまらなさにどうしても気が滅入る。更にそこで上手いこと話してやろうと、相手を関心させてやろうとしていた自分、つまり評価をシステムに預けようとした自分を思い出し、帰りの電車で気分が沈んでどんよりして車内が混んでることにイライラする。案外、内面化できてしまっている。権威に弱い。これこそ「汚れっちまった悲しみ」なのではないか。そして、悲しみは外部に転嫁され、車内の人間すべてが凡庸にしか生きられないテンプレ人間だと考えてしまってどんどん腹が立ってくる。iPhoneApple Musicで聴いてる音楽のボリュームを上げる。「テンプレ人間には分からねえだろ、この曲の良さは」なんて思ってしまっている。とてもくだらない不幸な話だ。

 

たましいを売らない。個として生きる。とても難しそうだけどぼくはそれにどうしても憧れる。もっと自分の実感から物事について考えていきたい。そうしてそれをたくさんストックして自分のたましいを満たしたい。そうして死んで行きたい。『たましいの場所』はぼくをゆっくりと感動させてくれたのだった。

 

『たましいの場所』はカバーがいいのでブックカバーをせずに持ち歩いて読んでいた。このわんこはエッセイに出てくるチャコなのだろうか。

 

 

 

『生きがいは 愛しあうことだけ』のカバーでも同じわんこが4羽の黒い鳥を目の前にして振り向きざまのようなポーズでナイスな表情をしていてたまらない。「なんなん、こいつら」みたいなアフレコがしたくなる。

 

心が見えてくるまで (ちくま文庫)

心が見えてくるまで (ちくま文庫)

 

 

あと『心が見えてくるまで』は嬉しそうに散歩をしている。

わんこ三部作なのだ。次は『生きがいは 愛しあうことだけ』を読もうと思う。カバーの織り込みのところで紹介されていた曽我部さんの『昨日・今日・明日』も読みたい。単行本をあまり読まずに借りっぱなしなのを思い出した。