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A Better Place To Pray

I'm singing out my revolution song like nothing else matters

ざわめきに耳をすます

 高校生くらいの頃に気付いたのが、「コミュ力(当時はトーク力と呼んでいた)は一日誰とも会わなかった次の日がピークでそれ以降はどんどん落ちていく」ということだった。
 もうちょっと詳しく書くと、高校生だから日曜日に友達と合わずに一人で本を読んだり音楽を聴いたり、そして個人的には一番時間を費やしていたのが「妄想(もちろんほぼ健全。あいつを殺してやる!とかではない)」 であって、そういう内向的なことで塗りつぶした一日の次の日の月曜日が、クラスメイトなどとの会話での「振り」も「返し」も「ツッコミ」も「たとえ」も、そして「ボケ」も冴えていたという話だ。

 日曜日という内向的な時間を一人で過ごすことでインプットが出来て、月曜日にクラスという空間に半ば強制的に置かれてしまうことによってそのインプットがクラスメイトとの刺激によってアウトプットされていく。そして、インプットが消耗されるにつれてアウトプットが痩せ細る、こういうことだろうか。なんか木曜とか金曜とか「もうなんか無理にネタに走らんでええて」とか思いながら切れ味のないボケを振ったり、ツッコミをしていた記憶がある。悲しいかな、大阪人、ということなのだろうか。

 思えば、僕にとって日曜日と土曜日はインプットに最適だった世代かもしれない。
 小学生の頃の日曜日は「ごっつええ感じ」だった。月曜日に「ごっつ」のコントを教室でやってた小学生だった。これはもう日本中の小学生がそうだったんじゃないか。高学年になるとそこに土曜日の「めちゃイケ」が入ってくる。
 そして、日本テレビの土曜日9時枠のドラマ群の快進撃も堂本剛&ともさかりえ金田一少年の事件簿』辺りから始まる。「学校の怪談」(池乃めだかのドラマ版、映画、そして常光徹の書籍)や「怪奇倶楽部」で目覚めたオカルトの扉が更に開いたのは『銀狼怪奇ファイル』だ(そのオカルトの扉は、中2の99年1月スタートの土9ドラマ『君といた未来のために』によって知ったニーチェによって哲学という扉があることを教えてくれた)。
 中学生から高校生の日曜日は「吉本超合金(吉本超合金F含む)」だった。これは中学生の頃はもう「ごっつ」以上にネタを真似した。一番好きなバラエティ番組は『吉本超合金』だ。
 やっぱり土曜日の「めちゃイケ」だ。97年から02年なんていうのは「めちゃイケ」の全盛期じゃないだろうか。中学生の頃に「お笑いストラックアウト」の回があって、録画したのを何回も何回も観て、同じように何回も何回も観た友達と昼休みとかに何回も何回もネタの細部やテロップを弄って大笑いして女子に眉をひそめられた思い出がある。

 高校も2年くらいになるともうそんなに土日にワクワクしなかった気もするんだけれど、それでもワクワクしてたときの気持ちは忘れられない、というか、しっかり戻ってくるタイミングもある。例えばそれはYouTubeで『金田一少年の事件簿』のOPを観たりすると小学生のときの土曜の夜の全能感が甦ってくる。



 小学生の頃、夏休みに入る前の一学期最後の登校日の帰り道で歩道橋をお道具箱を持ちながら渡っていたときの「匂い」が急にしてきて着ているスーツが重たく感じたり。
 中学生の頃、土曜日の昼までの授業を終えて「腹減ったわ」とか思いつつ帰ろうとして下足室で靴を履きながら部活に行く友達とした他愛もない会話をしてときの「匂い」が急にしてきて、GLAYの「グロリアス」をスマホYouTube開いて「土曜の午後の青空と生意気な笑顔たち」というラインを目当てに聴いて、やっぱりスーツが重たく感じたり。

 教室はいつもざわざわしていて、みんなが何かを喋っていてその喋りが重なっていつもざわざわしていた。クラスメイトがざわざわとして1つになったみたいにざわざわしていた。特定の誰かの声だけざわざわのなかからハッキリと聞こえていた気もする。聞こえていたというより聴いていた気がする。
 そこで先生が来てもまだちょっとざわざわしている。だから先生は「はーい、ちょっと静かにー」なんてことを出席簿で教卓を叩きながら言う。すると「ちょっとってどれくらいー?」とか言うやつがいたりして、先生が「50分くらいやな」とか言って「全然ちょっとちゃうやん!」とか誰かがツッコんでクラスが笑う。授業が始まる。
 昼間に中学校の前を通るとその開いた窓からはやっぱり全力のざわざわが聴こえてくる。僕の頃の教室のざわざわは今となってはバラバラになっている。だから、あの名前も知らない中学校の全力のざわざわもいつかバラバラになる。教室のざわざわは宇宙みたいなもののように思える。とか思ってるとやっぱり聴こえてくるGLAYの「グロリアス

 土曜の午後の青空と生意気な笑顔達
 あてのない景色をながめて同じ地図描いてた
 誰ひとり別々のゴールに向かう事サヨナラを
 言葉にはできずはしゃいでる

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団地ともお 29 (ビッグコミックス)

団地ともお 29 (ビッグコミックス)

 ということを『団地ともお』を読んでいると思い出す。終始ざわざわしてる漫画だ。誰かの声が大きいわけでもなく、とにかく団地自体がざわざわざわざわしているのを小田扉がちゃんと拾って29巻で500話くらいにしている。みんなが何かを喋っている。それを聴くのがおもしろい漫画だ。
 委員長のファン。教室のざわざわの中から聴こうとしてた声の主は委員長に似ていたからだ。 

地平線レス

 僕は郊外のベッドタウンに住んでいるのでとにかくどこへ行っても四方を家やマンションや団地に囲まれている。なので、高いところに登らない限りは、その建物の背の高さありきでの空しか見えないというか、建物が額縁(下側のみ)になってる空としか見えないというか、窮屈で抜けが悪いというか、とにかく地平線なんていう真っ直ぐな線は地平には存在しない。
 だけど、そうではないスカッとした空間がかつてあったような気がする。散歩をしながら空がしっかり見える空間がこのベッドタウンにもあった気がしてくる。そして気付く、それは学校の運動場だ。
 だけど、学校の運動場なんてセキュリティの厳しい昨今は容易に入れる訳もなく、あの何も建ってない広い土地から見る空の感じの懐かしさだけを思いながら建物だらけの街並みを散歩していると、見付けたのが畑の中を歩道が這っている運動場よりも広い土地だった。ここはとてもスカッとしている。建物が周りにないのでとにかく空が近い。
 旧郵政公社が所有していた社宅が北側にあったのもすっかり取り壊されて更にスカッとしている。西側には桜並木もあるし、地域の有志によって植えられたチューリップがたくさんあってこれも満開だ。日曜日は晴れて気温も高かったからここはもう完璧だった。
 桜の木で雀か何かの鳥がしきりに鳴きながら花をついばんで花弁を散らしてくる。はらはらと散っている桜は風のせいだけでなくて、案外鳥の仕業でもある、と気付いたときの気持ちがとてもよかった。
 花見のシーズンだけでなくて、天気のいい日は外で楽しく飲食をするという慣習があってもいいよな、と『団地ともお』にそんな話があったのを思い出しながら思ったし、自分でも積極的にしたいなあと思った。

Quadrophenia

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四重人格 ?デラックス・エディション

四重人格 ?デラックス・エディション

 フーの『クアドロフェニア(邦題、四重人格)』が好きで、その好きになった理由の何パーセントかは、田中宗一郎の手によるライナーノートの影響だ。
 洋楽文化(?)にとってライナーノートというものが名物というかまだおもしろいものとして機能していて認知している最後の世代(ゼロ年代に高校入学と大学卒業)に僕はなるのかもしれない(ごめんなさい。「もうライナーノートなんておもしろくない」みたいな言い方をして。そんな中でもビヨンセの『レモネード』のライナーは素晴らしかったです)。
レモネード(DVD付)

レモネード(DVD付)

 そもそも「ライナーノートのおもしろさとは?」という疑問があるんだけど、音楽(作品)を言葉にしてる時点でもうそれは音楽とは別物なわけで(これは小説の解説、書評や批評だってそう)、というかそれはまた別の「作品」なわけで、だから僕はひとつの読み物としての「強度のようなもの」があるとおもしろさを感じる。
 「読み物としての強度」というのは、 ぶっちゃけバンドの紹介や楽曲の事実としてのバックグラウンド(レコーディング日時やメンバー間のパワーバランスどとうとか)をメインにした、今や英語が読めれば比較的楽にインターネットで取れる情報よりも、作品からの書き手の思想というか視点というのか、そういう書き手の主観のようであっても、実は作品を通しているので完全な主観ではなく、と言っても客観でもない、というようなことが滲み出ているライナーが好きだ。滲み出ているというのが大切だ。
 なので、私小説的なライナー、つまり作品を使った完全な自分語りが、おもしろいというわけでもない。あくまでも「作品」が先行した上での書き手の視点というか。この視点というのも、自分がそもそも備えてる視点がその作品によって広げられたようなものが僕は好きだ。見えない風景が見えるようになった、要は聴く前の自分と聴いた後の自分がまったく別人になるようなことへの静かな青い炎のようなものを随所に滲ませるように(暑苦しいのもそれはそれでめんどくさい)書いてるライナーが好きだ。

 フーの『クアドロフェニア』の田中宗一郎のライナーはそういう類いのもので、鋭い作品への視点(「アイム・ワン」における詞での「one」の使い方など)もあって、ベスト・ライナーノートの10本に入るものなんだけど、このクラシックな存在になったフーというバンドは、やはり他のクラシックな存在のそれ同様に、数多のリイシュー盤が出回っている(もう、ここらへんわけわからんね)。
 先日、たまたま『クアドロフェニア デラックス・エディション』というデモ音源の入ったリイシュー盤を中古屋で見つけて購入したのだけど、ライナーノートにはその田中宗一郎の文章は掲載されていかった。ああ、残念。っていうか、まあ通常盤で氏のライナーは読めるから別の方の手によるライナーを読めるのは得なことなのだけど。

 田中宗一郎さんっていうのは、よくわからない書き手で、雑誌『スヌーザー』の長年の愛読者(毒者)なのだけど、どうにも「こういう書き手だ」という安定がない、作れない。というか、個人的に田中宗一郎さんに対する心の持ちようというか心の構えが定まらない。
 人は何か作品に触れるときにある程度は気分や考えの構えを作って向き合うのだけれど、その構えが無効化されて、あるときはめちゃくちゃ肯定し、またあるときはめちゃくちゃムカついたり、「えー、ないわ、それ」とか思っていて、田中宗一郎さんの書いたものは(ツイート含む)、カメレオンみたいな変幻自在というかグラデーションのある存在で、こっちの物差しが通用しないというか。こういうもやを読みたいという気持ちをスルッと抜けて行くというか。そういうことを飄々とやってはるというか。個人的には、「チェンジング・マン」とか「トリックスター」と心の中で呼ばさていただいている。
 で、そこに触れたこっち側は肯定しても否定してもムカついてもわけがわからなくても、結局は読まされてて、否定的な感想を抱いても「まあ、笑うしかないな」とか半身で思いつつも、しっかり言葉が身体に残っていて、生活していると不意に思い出して反芻してたりする。それどころか、否定的に受け取った言葉でも「こうじゃないか、ああじゃないか」と考えていたりするのだった。なので、「トリガー名人」とも個人的に心の中で呼ばせていただいている。

 でも、これらのことって普通のことじゃないか、なとど思うのだけど。
 中々と音楽評論家やライターに対する風当たりは強いというか、一度嫌いになると「もうこいつは駄目だ」という判断がなされて、もう無視を決め込まれるor揚げ足を取ってフラストレーションを発散させるチャンスのような存在になってしまう手応えをTwitterなどを見てると思う。ネタになった人はもうネタ的な存在から帰ってこれなくなるというか(というか、音楽についての文章ってあんまり「作品」としては見られてないんですかね、知らんけど)。
 僕は前の『火花』のところでも書いたけれど人間が大変にふにゃふにゃしているので、キレたりムカついたりしながらも、やっぱりそれがなんだかんだ音楽評論家諸氏が好きというかおもしろいみたいで、真に受けてキレたりムカついたり意味がわからなかったりした次のツイートとかで本気で感銘を受けて笑ったりもしていて、自分でもその感覚の不安定さに訳がわからなくもなるのだけど。

 こんだけ世の中が何か確かな物差し(何かが役に立つ、立たないとか、それにカウンター決めれる言葉探したり)とかを求めてるなかで、ふにゃふにゃしているのも悪くはないな、と思ったり。「コンフュージョン・ウィル・ビー・マイ・エピタフ」って誰かも言ってた気がするし。
 全てに綺麗な断定をしてる人とは、何か別のもんが見えるんちゃうかなあ、とか電車で中古屋で買った『クアドロフェニア デラックス・エディション』を開けながら思い、降りた駅前には桜の木。
 立ち止まってまだ全然花の咲いていない桜の木を眺めていると、「隣のおばちゃんにはこの桜の木はどう見えてるんやろか、俺とは同じなんやろか。そんなわけないよな。だから、自然主義文学みたいなのってあるんやろ」とベタなこと考えながら、「ふにゃふにゃしているのも悪くはないな」というムードを高笑いしながら何かにぶっ壊されて感銘を受けるのを期待してる自分がいたりするのを感じてる新年度です。

又吉直樹『火花』

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火花 (文春文庫)

火花 (文春文庫)

 「売れてからはバンドが企業にコントロールされてるようなものだった」とは、映画『スーパーソニック』でのオアシスのメンバーによる言葉だったと思うのだけど、ドラマ『火花』でもテレビに出て売れそうになったスパークスもプロデューサーに、その「コンビが売れそう」という行く末を、番組収録後の打ち上げという名の接待の場においてコントロールされることになる。
 徳永に比べると、どうにも漫才という芸に対して芯の強さのようなものを所々で感じれずスパークスの足を引っ張っているように思えたツッコミの山下の存在は、「マス」という言葉を口癖にすると共にその立場が「マス」というものへの意識に決着が付けれない徳永と逆になる。
 プロデューサーに対してコミュ力を発揮できない、というか発揮することに違和感があるような徳永に対して、それまでの僕は徳永の芸に対する真摯なスタンスにずっと心を打たれていたはずなのに(実際に留守番電話のネタだと人工知能のやつの方が好き)、「おい、帰るなよ!絶対にその旨い鶏の店行けよ!……、って、あー!!やっぱ帰るんかいな!!なんで帰るんや!」なんて具合にそれまでの徳永のことを放棄してイラついたりしていて、そんな自分を観察すると「自分は絶対的に『鹿谷にすらなれない鹿谷』なんだろうな」と思い、ポーズとしては徳永でありたいと思っているだけに多少落ち込んだりするのである(僕だと最初だけ徳永ぶって即座に鹿谷的な位置になるようなやつなんだろうなと思う。しかも、鹿谷ほどのセンスも持ち合わせずに。となると、徳永の事務所の後輩で「兄さんに一生着いていきます!」と宣言しながらも、スパークスの旗色が悪くなると鹿谷軍団に入ったあの後輩は僕かもしれないし、つまりはそういう人間のメタファーか。こういうところも上手いドラマだな)。

 そんな自分にも上司に楯突きまくってた時期が数年前にあったのを思い出して苦笑いをする。苦笑い、っていうより枕に顔を押し当ててモジモジする。軽く死にたくなる。が、多分あれは必要なことだった気もしている。
 我々、サラリーマンというのは、上司に楯突いても「異例な時期での異動」と言われつつ上司との互いの自尊心と自意識を賭けた決定的な対決もないままに部下の僕が課を動かされるだけで職場には平穏は訪れる。
 「上司がクソ、俺には高尚な理想があったんだ」などと嘯いてその文脈を見出だせる考えに浸っていれば僕の自尊心は保てるし、上手く行けば酒の席などで理解のある同僚や同期にその高尚な理想という話に共感して頂ければ自意識ですら満たされ、僕の体裁は整い過ぎるくらいに整うのである。ここらへん、一発勝負の大学受験がいかに清廉であったかをまじまじと感じる。そのようにして整い過ぎるくらいに整った体裁という名のコクーンなんぞは、人をダメにするだけだというのは最近とみに感じることのひとつだったりする。結局はバランス大会になるやんか?という神谷の声も聞こえてくる。
 ドラマ版『火花』は又吉自身にとっても大きなモチーフだったであろう「マスにもわかるようなネタ」vs「徳永の信じる本当にやりたいネタ」という間で起きる揺れがスパークスの命運を決めていて、ここがドラマのストーリーにしっかりとした動きを作っていてハマり込めた。
 やっぱりこの『火花』って芸人としての又吉が、自分を取り巻く世界に対して抱いて考えてきた彼にとって引くに引けない絶体絶命なことをたくさんモチーフにしててそこがとにかくおもしろいし、トリガーだらけで、小説っていう「ただのお話」が「ただのお話」で終わらないようなリアリティを随所に感じ取れる。お笑いに馴染んできた大阪の人間なので余計にそう思うのかもしれない。
 劇中歌である斉藤和義の「空に星が綺麗」はとても印象的に使われているのだけど、「あの頃の僕ら今 人にあたまを下げて」っていうのは芸人として売れなかった後の人生に向けられた言葉だと4話くらいまでは思っていたけど、まさか売れかけた時に響いてくるとは思いもしなかった。

 こういうことを考えながらドラマ『火花』を観ていると、あんだけ外野に騒がれ、企業にコントロールされ、そして誰の目にも明らかな落ち目な時期がありながらも7枚のアルバムを作ったオアシスは凄いということになるし、レディオヘッドなんてメンバーすら変わってないし、『キッド A』はシングル切ってないし、そのツアーでは企業の広告を締め出してる、なんてことまでしてて、もうどういうことかわからなくなる。

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 『火花』を観ていると一番心が動くのは創作に打ち込む徳永の姿だ。ぶつぶつ言いながらノートにネタを書いていく徳永のシーンにとても心が動かされるのだ(それは僕がこの文章もノートに書いてからここに起こしてるということも関係している。僕は実際にノートに字を書くのが好きなのだ。ボールペンはuni の0.28かJETSTREAMの0.38。ノートはMDノートがベストやけどプリンターの用紙でも別にオッケー)。
 そして何よりも、食うことがかかっている、要は漫才師というのを仕事に選んで、10年以上も真剣に創作に打ち込んだという、この時間が羨ましくて仕方ない。
 神谷は芸人を辞める徳永に「淘汰された奴等の存在って、絶対に無駄じゃないねん」という一連の言葉を掛けるが(これはまるで人の死に対する心強い回答のようでもある)、もちろんこの台詞は個人的にもとても感極まるものがある。その神谷の台詞とは別視点から見ることになるのだけど、やっぱり徳永の10年は芸術とかそういうものに憧れてきた人間にとってはそれだけでとても羨ましい時間だ。この時間を僕は無駄とは思わない。どうしても思えない。そこまでサラリーマン根性に浸れない。
 大学卒業→企業への就職という流れをどこかで諦めながらもその流れを自分から断ち切ることが出来ずに「社会人、辛すぎるわ」とかつぶやきながら、やっぱりどうしても芸術や表現について捨てきれない想いを持っている僕みたいな人間にとって、徳永の芸人としての10年はあまりにも輝かしい。芸人としてやりきった徳永の人生の内の10年に一切の「残酷さ」はない。だから、最後に流れる斉藤和義「空に星が綺麗」はとても穏やかに徳永を包み込むように流れている。
 残酷さがあるとしたら、それは僕の方にだろう。何故ならまだ本気でやりきってもなく、棄てきれてもいないのだから。こんなに残酷なことはないだろう。

BE HERE NOW

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 おじいさんがベンチに座ってアコーディオンを弾いている。曲は「真っ赤なお鼻のトナカイさんはー」というクリスマスの定番のやつだ。おじいさんは本当におじいさんという感じだ。80近いと思う。

 その曲のタイトルを俺は知らない。「真っ赤なお鼻のトナカイ」がタイトルだったような気もするがわからない、と書いた途端に全然違う気になった。あたまのなかで「真っ赤なお鼻のトナカイ」と思ったときはそれがタイトルに違いないと思ったのだけども。
 おじいさんは流暢にメロディーを弾いていく。途中で詰まったりしない。伸びやかにアコーディオンの音はメロディーになって響く。響くという意思のある感じというよりも、流れてくるという感じの自然さだ。そこに音楽があることに無理が一切ない。なので、聴いてるこっちも思わずあたまのなかで歌詞を乗せて歌う。空にはひとつも雲がなくてとても高く見える。青のグラデーションがしっかり見える。
 子供だったら絶対にはしゃいでいたと思うし、おじいさんから離れずに近くで聴いていたと思うし、おじいさんに話し掛けたと思うけど、おじいさんから徐々に離れてアコーディオンの音が聞こえなくなると、「これこそが文化だ」とか「これが生演奏というか生で楽器を鳴らすことの素晴らしさだ」とか「MP3みたいなデジタル環境下での音楽というのはこれに比べたら『本当に楽器が鳴っているのか?』とすら思ってしまうな。ゲシュタルト崩壊するぞ」なんてことを思っている。要はアコーディオンの音についてはもう忘れている。

 そこは池だ。池は瓢箪の形で、南北に縦長く延びている。北側の面積が広く、瓢箪の括れのところに橋が掛かっていて、淵を一週出来るように遊歩道がある。ベンチはその遊歩道の所々に池の方に向いて座れるように淵にいくつも配置されている。そこにおじいさんが池に向かって座り、アコーディオンを弾いている。散歩をしてる人たちはおじいさんの目の前を通りすぎる。俺も目の前を通る。アコーディオンは白かった。

Getting High

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 やりたいことが重なるというか、手を出したい選択肢がたくさんあると、そのたくさんあることから発せられるワクワクが凄くて整理がつかなくなり、あたまのなかで「あーーーーーーーーーー!」となってフリーズすることがたまにあるのだけど、正に今がそう。 というわけで、そのフリーズをなんとかするためにも選択肢を書いてみることにする。今はとりあえずオアシスを聴いている。


1、フィリップ・K・ディックヴァリス』が読みたい

 『2001年宇宙の旅』を読もうとしたらなんか棚の『ヴァリス』が気になっちゃって再読してる。「女子高生の作った壺のなかに神がいた」「ピンク色の光線が脳を照射する」って設定を俺はどう受け入れればいいのか、ってところでワクワクが止まらない。

2、スピッツはやぶさ』が聴きたい

ハヤブサ

ハヤブサ

 なんか久しぶりに聴きたくなって聴いてるんだけど「宇宙虫」って曲が帰宅時に歩いた寝具屋とばあさんのやってるスナックしかないシャッター商店街に怖いくらい合いすぎて聴きたくてたまんなくて、ジャケット眺めてるだけでワクワクが止まらない。


3、岸政彦『断片的なものの社会学』が読みたい

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

 これは何回も読みたくなる本で、読み出すと止まらなくなる。止まらなくなると言ってもあたまのなかの話で、読むのが止まらなくなるわけでなくて、寧ろ読むのは頻繁に止まる。止まってそこに書いてあることからの連関があたまのなかで止まらなくなる。物語や文脈はそうはいかないが、断片は宇宙まで届く。読み終わることがない本。着地しない本。
 岸さんが4年も土方やってたって話をわかった上で、終盤の鞄抱えて殴りかかろうとしてきた謎のおっさんに「やんのか!」って言うところで、岸さんのお姿を知らないのにあたまのなかにハッキリとした岸さんが現れた。

4、満島ひかりさんの写真や映像や歌声を漁りたい

 ずっとやってられる。この前、リアルタイムで職場の食堂で観た『徹子の部屋』では何とも思わなかったのに。最近は浪漫飛行が、あたまのなかだけでなく口笛で吹いたりしていて、ワクワクが止まらない。

5、部屋の掃除がしたい

 そろそろ片付けないと本がそこら中に広がってて。でも、やっぱり片付けた後には「大変にイケてる部屋がそこにあるはずだ」という妄想があって、ワクワクが止まらない(そんなことはないんだけど)

6、書き物をしたい

 これも大したもん書けはしないのに大したもんが書けるかもしれないという無根拠なワクワクが止まらない。


7、溜まりに溜まった聴いてない2016年リリースの音楽が聴きたい

 これ、もう何が溜まってるのかすらわからん。データで音楽持つってめちゃくちゃ苦手だ。どれを聴いたかハッキリわからんのだもん。モノ(フィジカル笑?)なら、封開けたので手出したのどれかわかるけど。
 でも、やっぱりその溜めた中にとんでもない音楽があるんじゃないか?ってワクワクが止まらない。

8、ビートルズの本が読みたい

 洋モノのビートルズ本でいいの見つけたんすよ。社会学的なところからもしっかり分析しつつ個別の楽曲を全て批評してるっていう。最高。ワクワクが止まらない。700ページくらいあるけどね。

 まあ、こんな感じかな。思ったより少ないかな。
 ブログやってると年間ベストやりたくなりますね。年間ベストのために音楽を聴くってのがとってもつまらなくて苦痛だから、俺はやらないけど。

Cat Named Sally

 「愛というのは、用意された無限の選択肢から私が主体的に選択したからこそ芽生えるものでなく、ただの時間の経過の産物なんじゃないか、特にその深度は時間という係数が大きいのではないか」
「でも、物理学者なんかは数学的に時間は人間の幻想だと平気で言ってるし」
「要は存在するのは物理法則に則った変化でしかない」
ビッグクランチが起こると時間の向きは逆になる、つうか今の向きが逆かもしらんよ」
「ていうか、俺が考えている愛というのは愛着のことなんじゃないか、でも愛着は愛と同義なんじゃないか、で、それで何が悪いんだ」
「どうしてASKAは、はてなでブログやってるんだ?設定はいじらないのか?」
「お願いだ、こういう変な天気は勘弁してくれ」
「というわけで動画を御覧下さい」

 と、それらを、猫、阪神タイガース、おから、ノロウイルスは細胞膜がなんとかだからアルコール除菌では死なないのは衝撃だ、存在としての満島ひかり、などということと繋げながら近所の喫茶店と散髪屋とスナックばっかりの死にかけた商店街を歩いていた火曜日、ペット可の喫茶店のガラスドアの前にキジトラの体格のいい猫がドアに向かって中を覗くように座っていた(ここで言う「座っていた」は、猫背の状態に猫がなるあの座り方だ)。猫のあの体勢は本当に座っているのだろうか。

 にしても、あの円錐形というか水滴みたいな腹がどっぷりしてて柄がしっかり見えるあの後ろ姿のフォルムは素晴らしいな……、と思った。
 猫の後ろ姿というのはなんとも言えない良さがある。「So Sall Can Wait/ She knows its too late / As were walking on by」というオアシスの「ドント・ルック・バック・イン・アンガー」ラインが流れる。あまりにも遅すぎたのを猫は知っている。
 特に前肢の、人間で言う肩甲骨による凹凸が、なんとも猫という近付けば近付く程に謎が増える存在を唯一しっかりとこちら側に担保していてくれている気すらしている。漫画家のくるねこさんの絵は、その肩甲骨の凹凸が描いてあるから好きになったのをペット可の喫茶店を覗くキジトラの方を見ていて思い出した。冬の天気予報が他の季節よりも俄然気になるのも、外の猫の方たちのことが心のなかにあるからだというのも思い出した。
 首輪はないが耳に楔形のカットが入っているので奴は地域猫の方だ。必死でというか、こっちがチッチッチとかやってもやつはモゾモゾと後ろ足を動かすだけでペット可の喫茶店の中をガラスドアから見るのを止めようとしない。見えているのだろうか。見てるのではないのだろうか。聞いているのかもしれない。よくわからない。やっぱり素晴らしいな。So Sally Can Wait.
 お前、そこはペット可の喫茶店なんだぞ。