A Better Place To Pray

I'm singing out my revolution song like nothing else matters

世界の果てへの夕べ

  午前。8時45分起床。銀行、記帳にて引き落とし確認。無性のコンビニおにぎりに敗北。洗濯×2をしつつサクスペの10連ガチャでSRゲットも所持済みキャラなので上限解放に。強化あかつきで痛恨の敏捷ポイントのカンストで約300ポイントを不意にして、8300でクリアに悶絶。しかし、深夜の単ガチャSRはアツかった。本田のゴール並み。

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  午後。寿司で昼飯。山手を散策。真夏のようだ。オリオンビールだ。ブルーシートでブルー。

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帰宅後メンテ終わりのサクスペ。

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楽しー、で、一時的に100以内。

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ついに課金するか激しく悩む中、SRチケットをゲット。

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うーん、この。課金欲未だ冷めず、メラメラと。

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「てめえ、サクスペばっかやってんじゃないわよ!」と言う声もメラメラとギラギラ。

「いや、月曜日はサクスペの更新日で忙しんすよ」と弁解。

 

記号的偶然性という神性

眼科の前に開院待ちの行列が出来ている。

どうしたって順番を待たなければならない病院のようなところで、開院待ちまでして更に時間をかけて並ぶというのがよくわからない、などと怪訝に思いながらその列へさらに意識を向けると、列を構成している10人弱の人たち全員が真っ白な眼帯をどちらかの眼に着けていた。「これは伊達正宗同好会か?」「いや、つげ義春ねじ式』的だ」という光景を見て夢かと思ったんだけど、私は明らかに買い物帰りだった。

ぶら下げていたビニール袋の中にあった4分の1カットの白菜の重さによって鍋で炊いた豚のモモ肉の味が舌でもなく脳でもなく身体それ自体に強烈にやってきて私を現実に呼び戻したのだった。

生活というもの中にある根源的な欲望の強度というかリアリティ。

 

「想像力でニュートンは生まれなっかたんです。人間の想像力なんて大したことはないんです。勘違いしないでください」

この眼科は月曜日が手術の日だ。週間天気予報のような様式で記された開院日の案内の月曜日のところには、診療の可否を表す◯や✖ではなくそのままズバリ「手術」と書いてある。

怖い文字だ。何故ならこれは「意識もしっかりあるなかで、眼に向かってメスが振り下ろされる体験」という意味だからだ。

月曜日にまとめて手術を受けた患者たちが翌日にまとめて診察に来たので眼帯だらけの光景が展開されてのだろう。しかし、開院待ちまでする意味というか事情は一体何なのか。季節は冬だ。

行列を見ると、どうしてもビートルズの「エリナー・リグビー」のコーラス部分が頭の中で流れ始める。

この現象が初めて起きたのは、大学生の頃に見た駅前にある銀行ATMに出来た列が目に入ったときだった。

その銀行ATMは店舗に併設されたものではなく、ATMのみが2台あるだけの狭い小屋のようなものだった。そこに向かって人々が順番を待って静かに並んでいる。みなケータイを触っているので猫背になって画面を見ている。おそらく給与振込日として大変にポピュラーな25日とかだったのだろう。

近くにあった無理に明るく装っている様にしか見えない白こい消費者金融の広告の看板も相まって(他人から金を借りることが、どうして満面の笑みに繋がるのか。俺なら号泣ものだ。他人から金を借りて満面の笑み、それは正に財務状況がかなり逼迫した状況、もしくはただの阿呆の所作なのだろう。是非、ドキュメント72時間消費者金融をやって欲しい。)、まるで借金で首が回らないのでずっとケータイを見るしかないといった風情でもって落ち込んで元気のない人たちが一列に並んでいるようにも見えた。少なくともそれは給料日というハレの日にまったく相応しくないものだった。

 

というその光景が私の内面においてさらに変化して、というか連関を生み出し、告解の順番を待つキリスト教信者というイメージを呼び起こしたことで「エリナー・リグビー」が流れてきたのだろうと思っている。それ以来ラーメン、セール、果ては平日昼間の立ち飲み屋の盛況、ボートピア周辺など、どんな行列でも目にするとそれが流れてくるのだった。

というか最近は「不寛容社会」な光景を街で見る度に流れるし、流れまくりやがっている。

 

 

 

風景は私の心を揺れ動かす。では逆に私の心は風景を揺れ動かすのか。というか、我々は風景を風景として見ることが出来るのか。そもそも風景を風景として見るということはどういうことなのか。

文学でも映画でもそれこそ音楽においても、自然というか景色、風景と登場人物の気持ちがつながるシーンはよく見られる。私がこれを書いているいま思い浮かべているのは、2年くらい前に読んだ遠藤周作の『沈黙』のことだ。

 

神の存在についての問い掛けが常に登場人物たちを苦しめるなか、とにかく自然は雄弁に登場人物の心象を語る。まるで心象と世界が完全に繋がってしまったように、拷問を受けているときに海は荒れ空は曇る。読んでいて「はい!では、この時、どうして波は荒々しいのでしょう?」という具合で学校の国語の先生が喜んで質問している図が浮かぶ。

 

 

神はひたすら沈黙するが自然は人間の心象にピッタリと寄り添う。

 

 

では、このとき作者というものは一体どういうものなのか。簡単に書くと、作者というのはどの位置から登場人物を、いや作品そのものを見ているのか、書いているのか。「神は作者なのか」とは思わないが、私は「自然が神なのではないか」とは思う。となると新潮文庫の表紙はとても示唆的だ。

 

『沈黙』のテーマはおもしろい、神の存在についての人間の心象の在り方のようなものを書きっているように思える。そこは私にも分かる。

現代の我々のような日本人の大半は表面的に信仰から遠い生活を送っているが、日々起きる偶然に神性、つまり神の手の介入を多少は感じている。

すべての出来事が必然なものだとしたら、人間は努力なんてことをわざわざせずにただ結果を待っていればいい。因果にランダム性の余地がない世界というのはそういうもので、それは大変に秩序立った世界でもある。本能で生きる動物はそういう世界を見ているとも言われている。

だが、人間にとって世界はランダムで混沌に満ちている。そこでその世界に人間側から秩序を与えようとしたのが「文化」というもので、そこには宗教が原始的なものとして存在していて、それは今でも偶然性と対峙した我々に神性を感じさせているのだ。その多少は感じている神性によって我々は「日々の行いが悪いからこうなった」などと宣い、己の倫理観について考えたりもする。

というこれらは『沈黙』自体の感想ではない。佐川という瞬きをあまりしない髪の多い官僚と麻生太郎の下品さから浮かんだことだ。

 

人を苦しめるのは、自然と個人の心象がつながりしかも心象が自然を支配しているという思考様式というか、表現なのではないのか。現代的な孤独というか「漠然とした寂しさ」という感覚はここから生まれたのではないのか。我々は自然という神すら持てない生活をしているのではないか。

それはそうだ。対象と主観の関係は、主観が対象を支配するものだというのが近代社会のコードだからだ。そう、対象は主観によって認知されることで初めて対象として存在できるということになっているのだから、自然が主観の支配下にはなれど、主観よりも大きな存在の神になれるわけがないのだ。それでも我々は神性を感じるのだけれども。

こう書いていると、Radioheadの『The King Of Limbs』を「自然から完全に切りはなされた人類」というモチーフを持ち出して読み解こうとした文章のことを思い出す。

今のコードとして人類は死に対してアンチエイジングとか健康食品、健康番組などで抵抗するしかない。というか、それはもはや抵抗ですらない。死について考えることに蓋がしたいだけだ。ああいうものが幅を利かすごとに我々は自然から切り離されていく。それどころか、文学からも離れていく。

 

 

  「春の歌 愛と希望より前に響く」

「幼い微熱を下げられないまま 神様の影を恐れて」

 

 

音楽を音楽として聴くことの享楽のようなものを私は幸運なことに体験している。それは音楽を人生や個人的な心象と結びつけることより強烈なものなのだ。

「人生や心象を超えるものとして、音楽や風景がある」という私の手応えだけには忠実でいたいし、そこから考えることをめんどくさがってはいけない。

2018年の永劫回帰

  生活を正すというのか、受験生のころからずっと言われてきたような「隙間時間を上手に使え!」みたいなことがイマイチできていないなあと仕事帰りの電車で何をするでもなく何千回も眺めた車窓を眺めながら思う。

 

「まさか、通勤でも通学と同じ路線を使うことになってるなんて大学生の僕はどう思うんだろうか」

 

  なんてことは思わない。大学生の時、就職をするということから具体的な未来を考えたことなんて、就活をしている時にすらなかったんじゃないか。あんなものは非現実なゲームでしかなっかたんじゃないか。何処の街で何をしてどんな電車に乗ってるのかなんて事より「今」ということしかなっかたはずだ。
  いつも何かを思いながらも、それは言葉などには結実せず、まるで初めから何も無かった様に消えてゆく。はて、無意識とはこの様なものが蓄積した産物なのだろうか。だとしたら、無敵だな、無意識って。無意識の在り方により罰せられ、無意識の在り方により批評され、下手をしたら賞賛をされる。


「この表現こそが、あなたの無意識の表出なんですよ」


  返す言葉もなし。会話終了。コミュニケーション・ブレイクダウン。糺の森

 

 

  受験生の時のことを最近よく思い出すのは、僕の出身大学を目指している近所に住んでいる男子高校生のせいだ。会ったらどうしても受験の話になってしまう。英語の問題を久しぶりに見て、大問2の四択のやつがまだ健在なのに思わず息を呑む。ここだけが満点に向けての難所だったんだ。
  僕には留年の危機はまったくなかった。けれども浪人をしたので、今でも「18歳の入試本番の2月に今の33歳の僕の意識だけがタイムスリップして、めちゃくちゃ焦る」という夢を見る。あの夢の合格発表の朝9時に速達郵便を待つ時の気持ちは本番の時のそれと変わりがない。
  夢を見ることにより、人生で一度限りの体験は何度も何度も繰り返されてしまう。
  しかもそれは、全く抗うことも払拭することも出来ないリアリティを持っているのでいつも僕は大真面目に焦る。
  カフカの小説のようだ。大真面目に城へ辿り着けず大真面目に城の周りをウロウロする。
  ニーチェなんかは「世界、それ自体が何回も同じ様に繰り返されている」(僕の要約)なんて言いやがるのだけれど。

  2018年の永劫回帰

  過去という引き摺るものだけ増やして2018年の永劫回帰はまだまだ続くし、そもそも終わらない。臨界点なんかあるんだろうか。

 

 

グランプリ

グランプリ

 

 

  Don’t look back on empty feeling.
  Don’t look back in anger.

 

  Teenage Fanclubの『Grand Prix』に収録されている「Don’t Look Back」は、Oasisの「Don’t Look Back In Anger」に似ている。と書くと語弊がある。先に世に出たのは、前者だから。なんだかギターのコードをザラっと弾いてる感じが似ている気がするし、「イントロのベースとドラムの入り同じやないかい!」って思わずにはおられず、そしてとにかく詞の持つ雰囲気が似ている。
  Wake up.The story’s over.なんて詞は、Oasisの2枚目のど真ん中に流れている空気だ。
そこが分かっていながら、自身が書いた曲そのもの(Champagne Supernova的な)の状況に陥り、コカインでThe storyを強引に引き延ばした結果が『BE HERE NOW』であり「All Around The World」だ。こんな素直なバンドを愛せないなんて、あなたは無慈悲にもほどがある。

 

  ティーンエイジは振り返るのに「on」を使い、ノエルはそこに「in」を使う。何となく、怒りのほうがonで、空っぽな空虚な気持ちの方がinだと思ってしまう。ここが逆なのが面白い。

  怒りという強い感情によって振り向かされるな。という怒りからの圧力のある表現でなく、inという仕方なしというかonよりは自然な感じで「怒りで振り向くな、せめて今日だけは」と歌ったノエル。
空っぽで空虚な虚しさの様なもに包まれて振り返る。という内省的なものではなく、虚しさによって振り向かされるな、と歌ったティーンエイジ。

  ノエルはティーンエイジのこの曲をも「Don’t Look Back In Anger」のネタ元にしてるんじゃないか。今まで何回も何回も『Grand Prix』を聴いているのにこんなことを思ったのは初めてだ。でも、次の「Verisimilitude」なんて曲はアンチ『Definitely Maybe』な感じがしないでもない様な曲だったりする。前置詞onとinからの素人考えの妄想夢芝居かもしれないけど。


  なんてことを「Neil Jung」を聴きながら考えていたら、手紙というか招待状が届いた。大学の同じ学部の同級生女史からの手紙。開封する前に思ってそのまま口をついたのは「名前変わってる!!!」だった。にしても、このタイミングかよ。「Neil Jung」という曲の思い入れの6割は彼女で出来てるはずだ。これが人生か!

 

  Wake up!! The story’s over!!

 

  当分、ティーンエイジの『Grand Prix』が手放せなさそう。
時期的には『Songs From Northern Britain』がめちゃくちゃよく聴こえる時期なんすけど。

  Going Nowhere.
  Couldn’t take the pain and left it there.


  あ、もう一曲聴こえてきた。

  あなたの夢や歴史は
  わたしのDiaryなの だから
  ねぇ 確かめて つなぎ返して
  Your soul ring my doorbell.

 

 

 

 

 

謎、明後日を待ちながら。

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 昔から変に何かに拘るところがあって、最近のその拘りの矛先は、手の清潔さとレシートに向かっている。
 手の清潔さは病的な話ではなく、単にインフルエンザが流行っているからそれを持ち込みたくないので常に手の清潔さに神経が行くので、アルコール消毒液とかまで使っている。
 これがよくなくて完全に手の甲を荒らしてしまった。中学生くらいの頃に日焼けして風呂入ったとき以来のあのヒリッヒリが来た。懐かしいけど、めんどくさいのでニベア塗りたくる。
 レシートは、二週間くらい前から家計簿をつけるために集めている。家計簿と言っても簡単なもんで、その日に買ったもの、要は金の動きを完全に把握するためにしっかりレシートを集め、一日の終わりにプリンターへ並べてコピーする。用途別にマーカーを使って分けて合計を書き込む。ま、会社の経費まとめるみたいなもんですよ。
 で、まとめててわかったのが最近、セブンイレブンの「しっとりホイップあんぱん」にハマってるってこと。これ、職場の人にもらって旨くて。こし餡とホイップが絶妙で。甘いもん好きにはナイスなパンかと。つうか、コンビニの人たちレシート渡してくれないのがデフォルト対応なのなんとかならないですかねえ。毎回「レシート頂けますか」って言わんと出してくれませーん。
 これを毎日やってると、それだけで謎な達成感が訪れて、早く明日のレシートをまとめたくなって早寝までしてしまう始末。おかげで、この3日くらいレコードで音楽聴けてねえわ。でも、長めにしっかり寝るのも気持ちええ。

1、チャールズ・ディケンズ『オリヴァー・ツイスト』読了

オリヴァー・ツイスト (新潮文庫)

オリヴァー・ツイスト (新潮文庫)


 728頁ですね、解説入れて。解説、チェスタトンです。「絶対的なオリジナリティの要求は、完全な引きこもり、絶対的な孤独の要求だ」「盗用ですら、われわれが社会に依存していることの告白にほかならない」ってことが最初の1頁に載ってて最高の解説でした。
 内容はもう途中からオリヴァーが主人公ちゃうし、フェイギン関係の描写がスミスの『ストレンジウェイズ、ヒア・ウィ・カム』が合いすぎる(ストレンジウェイズというのはマンチェスターに本当にある刑務所の名前らしい)。「ガールフレンド・イン・ア・コーマ」なんてサイクスとナンシーの関係みたいだ。あと、「アンハッピー・バースディ」のイントロの感じとかフェイギンとかサイクスのアジトの薄暗さが浮かぶ。
 あと書いておきたいのは、自然の描写がよかった。変に登場人物の心理と自然の描写を合致させてなくて、そのまま描写してて。遠藤周作みたいに「天気を登場人物の心象に合わせてこんなに動かせるなんて(神の存在を問うことがモチーフになってる『沈黙』)、筆者が神過ぎるし、つうか全然沈黙しとらんどころか天気通して雄弁すぎるやろ」とか思うと国語の授業思い出して一気にダルくなるんやけど、そういうことはなかったです。そういうことがあったら俺の頭を食ってやる。自然主義文学ってなんやねん。

2、フィリップ・K・ディック『去年を待ちながら』をついに捲りだした。


 とりあえず40頁読んだけど、全然入り込めねえ。図書館の本をどうしても盗んでしまう登場人物が出てきて「(彼は)ちゃんとものを借り出すのに恐怖症があるから」って台詞に爆笑したけど、入り込めねえ(笑)。読むのやめちゃいそう。
 『シミュラクラ』は、分かりやすいガジェット満載でエンタメなディック感あったけど、これは人工臓器みたいなおもろそうなガジェットが出てきてもなんかイマイチ盛り上がりに欠ける。まあ、これからやな、ってことで。あ、そういえば『時は乱れて』火星人ゲームみたいなんも出てきてますね。

3、YouTubeで歌謡曲聴いてると色々と思い出す。

 小松未歩に「謎」って曲があって、俺はこの曲が歌謡曲で一番好きな曲かもしれんなあ、ってぼんやりとした確信があります。このデジタルな音とアコギの生音でドラムの音をイントロでデカく持ってくるっていうのは、当時流行ってて、ミスチルも「ニシエヒガシエ」でやってましたね。なんやっけ、デジロックとか形容されてたような。あ、でも、それって99年で、この「謎」は97年か。あと、生音のアコギとビッグなギターとドラムで思い出すのはオアシスの「ザ・ヒンドゥ・タイムズ」。
 まあ、そんなことよりこの曲の持つセンチメンタルなところが好きなんですけど。例えば、歌詞の「失うことだけを 教えていくつもり」「踊るライト見つめて忘れない 謎が解けていく」とか。
 で、YouTubeで検索してると最近のアイドルがカバーしてて、それをよく聴いてます。
 ラ・ポン・ポンですか?ラ・ポン・ポン・ダブルだと思ってたんですけど、ダブルはエー・サイドに掛かってる言葉なので、ラ・ポン・ポン。
 メンバーがアップで写る時間やソロ歌唱の時間がメンバー間でハッキリし過ぎてておっさんの俺は観ててハラハラします。おっさんがいいなあと思った子のアップは一回しかありませんでした。

 いきなりすげえ鼻声でお歌いになるので笑うんですけど、鼻声よりも音がすげえスカスカです。打ち込みだけで作っただけというか、打ち込みだけで作ることは創造性がないことの証左だとかそういうことでなくて、音には金もアイデアも掛けてないなあ、と。
 小松未歩の「謎」にはまだ「盗用ですら、われわれが社会に依存していることの告白にほかならない」という感じのソウル(アイデアがちゃんとある)を感じましたけど(盗用だと思ってませんよ、先のチェスタトンの引用ですよ)、アイドルももう完璧に島宇宙、要はカルトの時代なんでしょうか。となると、「絶対的なオリジナリティの要求は、じつは絶対的な引きこもり、絶対的な孤独の要求だ」ってまたチェスタトンの言葉が響くわけです。
 なんてことを思いながらもよく聴くのは、好きなものは亜種でも簡単に好きになっちゃう俺の質のせい。バージョン違いが好きなんですよ。

 ラブ、デイ・アフター・トゥモローって言葉の意味が未だに掴めません。愛、明後日。どういうことですか?明後日には愛の在り方がまた変わってますよ、的な?ディスってるんやなくて、これよく聴いた思い出の曲なんやけど、タイトルの意味が未だに掴めてないっていう(笑)

Get Out Of The Doldrums Baby NOW!!!!!!!!!!

 「音楽についてあれこれと考えて、それを言葉にする」という、とにかく面倒でキリのないこと、下手をすれば他人に反目され絶縁状態に陥るようなことをわざわざ始めたのはいつからだったのか。そういうことをどうしても思い返さずにはいられない年末を過ごしている。
 それは「以前・以降」という楔を打つように、というか以前の僕を殺して埋めたエピタフのようなもので、僕の過去に厳然と存在しているので簡単にピックアップできる。2005年の大学二回生のときに聴いたというか出会った、オアシスの『ドント・ビリーヴ・ザ・トゥルース』がキッカケなのだ。
 僕はどうしてそんな面倒なことを始めたのだろうか。ただ「最高でしかない」とだけ思って口にしていればそれでいいとしなかったのだろうか。ということの原点に『ドント・ビリーヴ・ザ・トゥルース』という作品がある。
 エピタフにはこう書いてあるのだった。
 「同じ作品を聴いていても他人と受け取り方の差がこんなにも生まれるのはどうしてなのか?」
 これが『ドント・ビリーヴ・ザ・トゥルース』が僕にもたらした疑問だった。とても大きな疑問で、未だにそれがよくわからずにいる。よくわからずにいるので、昔に日本のバンドが「あなたになって世界を見てみたいよ」と歌ったときには、その疑問はそうしないと解決はしないんだ!なんて具合にとても興奮したのを覚えている。コンフュージョン・ウィル・ビー・マイ・エピタフ。
 簡単に言うと『ドント・ビリーヴ・ザ・トゥルース』というめちゃくちゃ最高なアルバムをどうして最高だと思わずに「オアシスはもう終わってるんだよ」と言う人たちがいるのかわからなかったのだった。
 具体的に書くと、「まあ、『ライラ』はオアシスクラシックだよね」って言う人たちが理解出来なかった。過去のオアシスにシンガロング出来てかつあんなにリズムが跳ねる曲なんて無い。「彼らは一体何を聴いているのか? 」「音楽を聴くというのはどういうことなのか?」と腹を立たせながら考えていたら、こういうことをしていたのだった。

 そういうことを思い返さずにはいられない年末になっているのはノエル・ギャラガーズ・ハイ・フライング・バーズ『フー・ビルト・ザ・ムーン?』が最高だったからだ。ゲット・アウト・オブ・ザ・ドールドラム・ベイビー・ナウ!

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Who Built the Moon [Analog]

Who Built the Moon [Analog]

 Get Out Of The Doldrums Baby Now!
 You Liar, I'll Set On You Fire!
 Get Out Of The Doldrums Baby Now!

 こんなにテンションの高いノエルはいつ振りなんだろうか。こんなにエネルギー、いや野心に満ち溢れたノエルはいつ振りなんだろうか。
 憂うつ振るのもうやめろ!お前はそうやって嘘を付いてる、そんなんなら俺はお前に火を付けてやる!憂うつなんてぶっ飛ばせよ!
 ノエルはこのラインを歌うときにギターをストロークをしている右手を大きく振り上げる。その仕草にたまらなく興奮してたまらなく全能感をまとってる俺は一体いつ振りなんだろうか?

 『フー・ビルト・ザ・ムーン?』を聴いたときの最初の感想はただひとつ。「ついにノエルがサイケでまるまる一枚作ってくれた!」ということだった。
 これはもうオアシスの4枚目や失われたアルバムになってしまったデス・イン・ヴェガスのプロデュースで発表される予定だった幻の6枚目、そして7枚目。ソロになってからも一枚目の「ワット・ア・ライフ」、二枚目の「ザ・ライト・スタッフ」などというように、ノエルは常にサイケやダンスのテイストをやって来た。「オアシスがサイケに手を出すと大抵がゴミになる」と宣ったのはオアシス時代のリアム・ギャラガーだ。
 が、ノエルはついにサイケで傑作をものにしたのだ。このことが僕は嬉しくて仕方ない。

 『フー・ビルト・ザ・ムーン?』は『ドント・ビリーヴ・ザ・トゥルース』を越える傑作だ。だから、僕は改めてエピタフに刻まれた言葉を思い返さずにはいられない。そんな年末だ。

 「同じ作品を聴いていても他人と受け取り方の差がこんなにも生まれるのはどうしてなのか?」

Don't look back in anger, at least not today

 このブログが今年の5月14日で止まっている。それを見てかなりギョッとする。何故ならその一ヶ月後の6月14日から僕の周りの景色は一変し始めたからだ。
 僕はこういう縁起はというか因縁は信じてしまう質だから、これをアップするとまた一ヶ月後に何か起こるんじゃないかと本気でビビりながら書いていて、不意に『あまちゃん』の橋本愛が演じたユイちゃんのことを思い出している。彼女は東京へ行こうとする度に災難に見舞われて東京へ行けなかった女の子だ。あれは何かの比喩か?いやいや、ああいうことは本当にあるのだ。ユイちゃんのそれからはどうしたって、神とヨブの関係も思い出すのだけど、ユイちゃんから神とヨブのことを思い出すと、その連想が自分に還ってくる。
 とにかく話を戻すと、昔、僕が小学生の頃にそろばん塾へ通う前に見ていたアニメに『熱血最強 ゴウザウラー』というのがあって、そのオープニングは「普通の朝が遠くに消えていく 瞳をそらさないで 走れよ」と始まったが、6月の14日から普通の朝が遠くに消えていくのを僕は感じ始めるのである。それがハッキリしたものになるのは6月の20日くらいで、走れるようになったのは9月の中旬くらいからだ。

 で、ここまで書いてそれが何かはここには書かない(僕自身に何かが起きたわけではない)。そういうことをこと細かくするのは絶対に縁起が悪いのを僕は体感で知っているからだ。ただ、これを書いたのは改めて自分で確認するためだ。
 何を確認するためかというと、簡単に言うと「今を生きろ」ということだ。オアシスの駄作(諸説あり)、『BE HERE NOW』というタイトルは60年代のヒッピーに流行った言葉で「今を生きろ」という意味だ。ついでに「ドント・ルック・バック・イン・アンガー」は最高の曲だと、今回のことで沁々わかったよ。と言いつつ、オアシスでなくこれまた改めて染みまくってるXTCの歌詞を引用。

Life's like a jig-saw
You get the straight bits
But there's something missing in the middle

(All of a sudden) We find the cupboard's bare
(All of a sudden) We find Heaven's not there
(All of a sudden) We find the sun's gone cold
(All of a sudden) We find we're more than old
(All of a sudden) We find that we've lost love

XTC「オール・オブ・サドン(イッツ・トゥー・レイト)」より引用


 人は死ぬんだ。間違いなく。どう死ぬかがわからないし、選べないし、その死に方はちょっと……みたいに拒否すらできないところがミソだしクソだ。神はヨブと出会って善になったとしたら、神はまだまだ多分ヨブに出会えてない、ただのファッキンリビドーだ、なんてパクリながら宣いつつ、最近読んだ本で本気で全身全霊で感銘した一節(教会というコミュニティから離婚をしたことで見捨てられた熱心なキリスト信者の言葉。彼は教会というコミュニティを憎悪しながらもキリストという人のことはどうしても気になるという)を引用して結びと致し候。

「ただ、どうしても気になるのが、あいつ(ジーザス。キリストのこと)、いつも死にかけてるだろう。しかも、あろうことか神を恨んだりしてるし。あなたは何ゆえわたしを見捨て給うのか、なんて言って。納得できないままに、神と世間を恨んで、絶望して、死ぬことを怖がって、七転八倒しなから死んで行こうとしてるんだよ。そんなちっとも悟りを開いてない男がどうして神たり得るのか。だが、俺はもう、そういう男しか信じない」

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ざわめきに耳をすます

 高校生くらいの頃に気付いたのが、「コミュ力(当時はトーク力と呼んでいた)は一日誰とも会わなかった次の日がピークでそれ以降はどんどん落ちていく」ということだった。
 もうちょっと詳しく書くと、高校生だから日曜日に友達と合わずに一人で本を読んだり音楽を聴いたり、そして個人的には一番時間を費やしていたのが「妄想(もちろんほぼ健全。あいつを殺してやる!とかではない)」 であって、そういう内向的なことで塗りつぶした一日の次の日の月曜日が、クラスメイトなどとの会話での「振り」も「返し」も「ツッコミ」も「たとえ」も、そして「ボケ」も冴えていたという話だ。

 日曜日という内向的な時間を一人で過ごすことでインプットが出来て、月曜日にクラスという空間に半ば強制的に置かれてしまうことによってそのインプットがクラスメイトとの刺激によってアウトプットされていく。そして、インプットが消耗されるにつれてアウトプットが痩せ細る、こういうことだろうか。なんか木曜とか金曜とか「もうなんか無理にネタに走らんでええて」とか思いながら切れ味のないボケを振ったり、ツッコミをしていた記憶がある。悲しいかな、大阪人、ということなのだろうか。

 思えば、僕にとって日曜日と土曜日はインプットに最適だった世代かもしれない。
 小学生の頃の日曜日は「ごっつええ感じ」だった。月曜日に「ごっつ」のコントを教室でやってた小学生だった。これはもう日本中の小学生がそうだったんじゃないか。高学年になるとそこに土曜日の「めちゃイケ」が入ってくる。
 そして、日本テレビの土曜日9時枠のドラマ群の快進撃も堂本剛&ともさかりえ金田一少年の事件簿』辺りから始まる。「学校の怪談」(池乃めだかのドラマ版、映画、そして常光徹の書籍)や「怪奇倶楽部」で目覚めたオカルトの扉が更に開いたのは『銀狼怪奇ファイル』だ(そのオカルトの扉は、中2の99年1月スタートの土9ドラマ『君といた未来のために』によって知ったニーチェによって哲学という扉があることを教えてくれた)。
 中学生から高校生の日曜日は「吉本超合金(吉本超合金F含む)」だった。これは中学生の頃はもう「ごっつ」以上にネタを真似した。一番好きなバラエティ番組は『吉本超合金』だ。
 やっぱり土曜日の「めちゃイケ」だ。97年から02年なんていうのは「めちゃイケ」の全盛期じゃないだろうか。中学生の頃に「お笑いストラックアウト」の回があって、録画したのを何回も何回も観て、同じように何回も何回も観た友達と昼休みとかに何回も何回もネタの細部やテロップを弄って大笑いして女子に眉をひそめられた思い出がある。

 高校も2年くらいになるともうそんなに土日にワクワクしなかった気もするんだけれど、それでもワクワクしてたときの気持ちは忘れられない、というか、しっかり戻ってくるタイミングもある。例えばそれはYouTubeで『金田一少年の事件簿』のOPを観たりすると小学生のときの土曜の夜の全能感が甦ってくる。



 小学生の頃、夏休みに入る前の一学期最後の登校日の帰り道で歩道橋をお道具箱を持ちながら渡っていたときの「匂い」が急にしてきて着ているスーツが重たく感じたり。
 中学生の頃、土曜日の昼までの授業を終えて「腹減ったわ」とか思いつつ帰ろうとして下足室で靴を履きながら部活に行く友達とした他愛もない会話をしてときの「匂い」が急にしてきて、GLAYの「グロリアス」をスマホYouTube開いて「土曜の午後の青空と生意気な笑顔たち」というラインを目当てに聴いて、やっぱりスーツが重たく感じたり。

 教室はいつもざわざわしていて、みんなが何かを喋っていてその喋りが重なっていつもざわざわしていた。クラスメイトがざわざわとして1つになったみたいにざわざわしていた。特定の誰かの声だけざわざわのなかからハッキリと聞こえていた気もする。聞こえていたというより聴いていた気がする。
 そこで先生が来てもまだちょっとざわざわしている。だから先生は「はーい、ちょっと静かにー」なんてことを出席簿で教卓を叩きながら言う。すると「ちょっとってどれくらいー?」とか言うやつがいたりして、先生が「50分くらいやな」とか言って「全然ちょっとちゃうやん!」とか誰かがツッコんでクラスが笑う。授業が始まる。
 昼間に中学校の前を通るとその開いた窓からはやっぱり全力のざわざわが聴こえてくる。僕の頃の教室のざわざわは今となってはバラバラになっている。だから、あの名前も知らない中学校の全力のざわざわもいつかバラバラになる。教室のざわざわは宇宙みたいなもののように思える。とか思ってるとやっぱり聴こえてくるGLAYの「グロリアス

 土曜の午後の青空と生意気な笑顔達
 あてのない景色をながめて同じ地図描いてた
 誰ひとり別々のゴールに向かう事サヨナラを
 言葉にはできずはしゃいでる

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団地ともお 29 (ビッグコミックス)

団地ともお 29 (ビッグコミックス)

 ということを『団地ともお』を読んでいると思い出す。終始ざわざわしてる漫画だ。誰かの声が大きいわけでもなく、とにかく団地自体がざわざわざわざわしているのを小田扉がちゃんと拾って29巻で500話くらいにしている。みんなが何かを喋っている。それを聴くのがおもしろい漫画だ。
 委員長のファン。教室のざわざわの中から聴こうとしてた声の主は委員長に似ていたからだ。