A Better Place To Pray

I'm singing out my revolution song like nothing else matters

記号的偶然性という神性

眼科の前に開院待ちの行列が出来ている。

どうしたって順番を待たなければならない病院のようなところで、開院待ちまでして更に時間をかけて並ぶというのがよくわからない、などと怪訝に思いながらその列へさらに意識を向けると、列を構成している10人弱の人たち全員が真っ白な眼帯をどちらかの眼に着けていた。「これは伊達正宗同好会か?」「いや、つげ義春ねじ式』的だ」という光景を見て夢かと思ったんだけど、私は明らかに買い物帰りだった。

ぶら下げていたビニール袋の中にあった4分の1カットの白菜の重さによって鍋で炊いた豚のモモ肉の味が舌でもなく脳でもなく身体それ自体に強烈にやってきて私を現実に呼び戻したのだった。

生活というもの中にある根源的な欲望の強度というかリアリティ。

 

「想像力でニュートンは生まれなっかたんです。人間の想像力なんて大したことはないんです。勘違いしないでください」

この眼科は月曜日が手術の日だ。週間天気予報のような様式で記された開院日の案内の月曜日のところには、診療の可否を表す◯や✖ではなくそのままズバリ「手術」と書いてある。

怖い文字だ。何故ならこれは「意識もしっかりあるなかで、眼に向かってメスが振り下ろされる体験」という意味だからだ。

月曜日にまとめて手術を受けた患者たちが翌日にまとめて診察に来たので眼帯だらけの光景が展開されてのだろう。しかし、開院待ちまでする意味というか事情は一体何なのか。季節は冬だ。

行列を見ると、どうしてもビートルズの「エリナー・リグビー」のコーラス部分が頭の中で流れ始める。

この現象が初めて起きたのは、大学生の頃に見た駅前にある銀行ATMに出来た列が目に入ったときだった。

その銀行ATMは店舗に併設されたものではなく、ATMのみが2台あるだけの狭い小屋のようなものだった。そこに向かって人々が順番を待って静かに並んでいる。みなケータイを触っているので猫背になって画面を見ている。おそらく給与振込日として大変にポピュラーな25日とかだったのだろう。

近くにあった無理に明るく装っている様にしか見えない白こい消費者金融の広告の看板も相まって(他人から金を借りることが、どうして満面の笑みに繋がるのか。俺なら号泣ものだ。他人から金を借りて満面の笑み、それは正に財務状況がかなり逼迫した状況、もしくはただの阿呆の所作なのだろう。是非、ドキュメント72時間消費者金融をやって欲しい。)、まるで借金で首が回らないのでずっとケータイを見るしかないといった風情でもって落ち込んで元気のない人たちが一列に並んでいるようにも見えた。少なくともそれは給料日というハレの日にまったく相応しくないものだった。

 

というその光景が私の内面においてさらに変化して、というか連関を生み出し、告解の順番を待つキリスト教信者というイメージを呼び起こしたことで「エリナー・リグビー」が流れてきたのだろうと思っている。それ以来ラーメン、セール、果ては平日昼間の立ち飲み屋の盛況、ボートピア周辺など、どんな行列でも目にするとそれが流れてくるのだった。

というか最近は「不寛容社会」な光景を街で見る度に流れるし、流れまくりやがっている。

 

 

 

風景は私の心を揺れ動かす。では逆に私の心は風景を揺れ動かすのか。というか、我々は風景を風景として見ることが出来るのか。そもそも風景を風景として見るということはどういうことなのか。

文学でも映画でもそれこそ音楽においても、自然というか景色、風景と登場人物の気持ちがつながるシーンはよく見られる。私がこれを書いているいま思い浮かべているのは、2年くらい前に読んだ遠藤周作の『沈黙』のことだ。

 

神の存在についての問い掛けが常に登場人物たちを苦しめるなか、とにかく自然は雄弁に登場人物の心象を語る。まるで心象と世界が完全に繋がってしまったように、拷問を受けているときに海は荒れ空は曇る。読んでいて「はい!では、この時、どうして波は荒々しいのでしょう?」という具合で学校の国語の先生が喜んで質問している図が浮かぶ。

 

 

神はひたすら沈黙するが自然は人間の心象にピッタリと寄り添う。

 

 

では、このとき作者というものは一体どういうものなのか。簡単に書くと、作者というのはどの位置から登場人物を、いや作品そのものを見ているのか、書いているのか。「神は作者なのか」とは思わないが、私は「自然が神なのではないか」とは思う。となると新潮文庫の表紙はとても示唆的だ。

 

『沈黙』のテーマはおもしろい、神の存在についての人間の心象の在り方のようなものを書きっているように思える。そこは私にも分かる。

現代の我々のような日本人の大半は表面的に信仰から遠い生活を送っているが、日々起きる偶然に神性、つまり神の手の介入を多少は感じている。

すべての出来事が必然なものだとしたら、人間は努力なんてことをわざわざせずにただ結果を待っていればいい。因果にランダム性の余地がない世界というのはそういうもので、それは大変に秩序立った世界でもある。本能で生きる動物はそういう世界を見ているとも言われている。

だが、人間にとって世界はランダムで混沌に満ちている。そこでその世界に人間側から秩序を与えようとしたのが「文化」というもので、そこには宗教が原始的なものとして存在していて、それは今でも偶然性と対峙した我々に神性を感じさせているのだ。その多少は感じている神性によって我々は「日々の行いが悪いからこうなった」などと宣い、己の倫理観について考えたりもする。

というこれらは『沈黙』自体の感想ではない。佐川という瞬きをあまりしない髪の多い官僚と麻生太郎の下品さから浮かんだことだ。

 

人を苦しめるのは、自然と個人の心象がつながりしかも心象が自然を支配しているという思考様式というか、表現なのではないのか。現代的な孤独というか「漠然とした寂しさ」という感覚はここから生まれたのではないのか。我々は自然という神すら持てない生活をしているのではないか。

それはそうだ。対象と主観の関係は、主観が対象を支配するものだというのが近代社会のコードだからだ。そう、対象は主観によって認知されることで初めて対象として存在できるということになっているのだから、自然が主観の支配下にはなれど、主観よりも大きな存在の神になれるわけがないのだ。それでも我々は神性を感じるのだけれども。

こう書いていると、Radioheadの『The King Of Limbs』を「自然から完全に切りはなされた人類」というモチーフを持ち出して読み解こうとした文章のことを思い出す。

今のコードとして人類は死に対してアンチエイジングとか健康食品、健康番組などで抵抗するしかない。というか、それはもはや抵抗ですらない。死について考えることに蓋がしたいだけだ。ああいうものが幅を利かすごとに我々は自然から切り離されていく。それどころか、文学からも離れていく。

 

 

  「春の歌 愛と希望より前に響く」

「幼い微熱を下げられないまま 神様の影を恐れて」

 

 

音楽を音楽として聴くことの享楽のようなものを私は幸運なことに体験している。それは音楽を人生や個人的な心象と結びつけることより強烈なものなのだ。

「人生や心象を超えるものとして、音楽や風景がある」という私の手応えだけには忠実でいたいし、そこから考えることをめんどくさがってはいけない。