A Better Place To Pray

I'm singing out my revolution song like nothing else matters

Quadrophenia

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四重人格 ?デラックス・エディション

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 フーの『クアドロフェニア(邦題、四重人格)』が好きで、その好きになった理由の何パーセントかは、田中宗一郎の手によるライナーノートの影響だ。
 洋楽文化(?)にとってライナーノートというものが名物というかまだおもしろいものとして機能していて認知している最後の世代(ゼロ年代に高校入学と大学卒業)に僕はなるのかもしれない(ごめんなさい。「もうライナーノートなんておもしろくない」みたいな言い方をして。そんな中でもビヨンセの『レモネード』のライナーは素晴らしかったです)。
レモネード(DVD付)

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 そもそも「ライナーノートのおもしろさとは?」という疑問があるんだけど、音楽(作品)を言葉にしてる時点でもうそれは音楽とは別物なわけで(これは小説の解説、書評や批評だってそう)、というかそれはまた別の「作品」なわけで、だから僕はひとつの読み物としての「強度のようなもの」があるとおもしろさを感じる。
 「読み物としての強度」というのは、 ぶっちゃけバンドの紹介や楽曲の事実としてのバックグラウンド(レコーディング日時やメンバー間のパワーバランスどとうとか)をメインにした、今や英語が読めれば比較的楽にインターネットで取れる情報よりも、作品からの書き手の思想というか視点というのか、そういう書き手の主観のようであっても、実は作品を通しているので完全な主観ではなく、と言っても客観でもない、というようなことが滲み出ているライナーが好きだ。滲み出ているというのが大切だ。
 なので、私小説的なライナー、つまり作品を使った完全な自分語りが、おもしろいというわけでもない。あくまでも「作品」が先行した上での書き手の視点というか。この視点というのも、自分がそもそも備えてる視点がその作品によって広げられたようなものが僕は好きだ。見えない風景が見えるようになった、要は聴く前の自分と聴いた後の自分がまったく別人になるようなことへの静かな青い炎のようなものを随所に滲ませるように(暑苦しいのもそれはそれでめんどくさい)書いてるライナーが好きだ。

 フーの『クアドロフェニア』の田中宗一郎のライナーはそういう類いのもので、鋭い作品への視点(「アイム・ワン」における詞での「one」の使い方など)もあって、ベスト・ライナーノートの10本に入るものなんだけど、このクラシックな存在になったフーというバンドは、やはり他のクラシックな存在のそれ同様に、数多のリイシュー盤が出回っている(もう、ここらへんわけわからんね)。
 先日、たまたま『クアドロフェニア デラックス・エディション』というデモ音源の入ったリイシュー盤を中古屋で見つけて購入したのだけど、ライナーノートにはその田中宗一郎の文章は掲載されていかった。ああ、残念。っていうか、まあ通常盤で氏のライナーは読めるから別の方の手によるライナーを読めるのは得なことなのだけど。

 田中宗一郎さんっていうのは、よくわからない書き手で、雑誌『スヌーザー』の長年の愛読者(毒者)なのだけど、どうにも「こういう書き手だ」という安定がない、作れない。というか、個人的に田中宗一郎さんに対する心の持ちようというか心の構えが定まらない。
 人は何か作品に触れるときにある程度は気分や考えの構えを作って向き合うのだけれど、その構えが無効化されて、あるときはめちゃくちゃ肯定し、またあるときはめちゃくちゃムカついたり、「えー、ないわ、それ」とか思っていて、田中宗一郎さんの書いたものは(ツイート含む)、カメレオンみたいな変幻自在というかグラデーションのある存在で、こっちの物差しが通用しないというか。こういうもやを読みたいという気持ちをスルッと抜けて行くというか。そういうことを飄々とやってはるというか。個人的には、「チェンジング・マン」とか「トリックスター」と心の中で呼ばさていただいている。
 で、そこに触れたこっち側は肯定しても否定してもムカついてもわけがわからなくても、結局は読まされてて、否定的な感想を抱いても「まあ、笑うしかないな」とか半身で思いつつも、しっかり言葉が身体に残っていて、生活していると不意に思い出して反芻してたりする。それどころか、否定的に受け取った言葉でも「こうじゃないか、ああじゃないか」と考えていたりするのだった。なので、「トリガー名人」とも個人的に心の中で呼ばせていただいている。

 でも、これらのことって普通のことじゃないか、なとど思うのだけど。
 中々と音楽評論家やライターに対する風当たりは強いというか、一度嫌いになると「もうこいつは駄目だ」という判断がなされて、もう無視を決め込まれるor揚げ足を取ってフラストレーションを発散させるチャンスのような存在になってしまう手応えをTwitterなどを見てると思う。ネタになった人はもうネタ的な存在から帰ってこれなくなるというか(というか、音楽についての文章ってあんまり「作品」としては見られてないんですかね、知らんけど)。
 僕は前の『火花』のところでも書いたけれど人間が大変にふにゃふにゃしているので、キレたりムカついたりしながらも、やっぱりそれがなんだかんだ音楽評論家諸氏が好きというかおもしろいみたいで、真に受けてキレたりムカついたり意味がわからなかったりした次のツイートとかで本気で感銘を受けて笑ったりもしていて、自分でもその感覚の不安定さに訳がわからなくもなるのだけど。

 こんだけ世の中が何か確かな物差し(何かが役に立つ、立たないとか、それにカウンター決めれる言葉探したり)とかを求めてるなかで、ふにゃふにゃしているのも悪くはないな、と思ったり。「コンフュージョン・ウィル・ビー・マイ・エピタフ」って誰かも言ってた気がするし。
 全てに綺麗な断定をしてる人とは、何か別のもんが見えるんちゃうかなあ、とか電車で中古屋で買った『クアドロフェニア デラックス・エディション』を開けながら思い、降りた駅前には桜の木。
 立ち止まってまだ全然花の咲いていない桜の木を眺めていると、「隣のおばちゃんにはこの桜の木はどう見えてるんやろか、俺とは同じなんやろか。そんなわけないよな。だから、自然主義文学みたいなのってあるんやろ」とベタなこと考えながら、「ふにゃふにゃしているのも悪くはないな」というムードを高笑いしながら何かにぶっ壊されて感銘を受けるのを期待してる自分がいたりするのを感じてる新年度です。