A Better Place To Pray

I'm singing out my revolution song like nothing else matters

又吉直樹『火花』

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火花 (文春文庫)

火花 (文春文庫)

 「売れてからはバンドが企業にコントロールされてるようなものだった」とは、映画『スーパーソニック』でのオアシスのメンバーによる言葉だったと思うのだけど、ドラマ『火花』でもテレビに出て売れそうになったスパークスもプロデューサーに、その「コンビが売れそう」という行く末を、番組収録後の打ち上げという名の接待の場においてコントロールされることになる。
 徳永に比べると、どうにも漫才という芸に対して芯の強さのようなものを所々で感じれずスパークスの足を引っ張っているように思えたツッコミの山下の存在は、「マス」という言葉を口癖にすると共にその立場が「マス」というものへの意識に決着が付けれない徳永と逆になる。
 プロデューサーに対してコミュ力を発揮できない、というか発揮することに違和感があるような徳永に対して、それまでの僕は徳永の芸に対する真摯なスタンスにずっと心を打たれていたはずなのに(実際に留守番電話のネタだと人工知能のやつの方が好き)、「おい、帰るなよ!絶対にその旨い鶏の店行けよ!……、って、あー!!やっぱ帰るんかいな!!なんで帰るんや!」なんて具合にそれまでの徳永のことを放棄してイラついたりしていて、そんな自分を観察すると「自分は絶対的に『鹿谷にすらなれない鹿谷』なんだろうな」と思い、ポーズとしては徳永でありたいと思っているだけに多少落ち込んだりするのである(僕だと最初だけ徳永ぶって即座に鹿谷的な位置になるようなやつなんだろうなと思う。しかも、鹿谷ほどのセンスも持ち合わせずに。となると、徳永の事務所の後輩で「兄さんに一生着いていきます!」と宣言しながらも、スパークスの旗色が悪くなると鹿谷軍団に入ったあの後輩は僕かもしれないし、つまりはそういう人間のメタファーか。こういうところも上手いドラマだな)。

 そんな自分にも上司に楯突きまくってた時期が数年前にあったのを思い出して苦笑いをする。苦笑い、っていうより枕に顔を押し当ててモジモジする。軽く死にたくなる。が、多分あれは必要なことだった気もしている。
 我々、サラリーマンというのは、上司に楯突いても「異例な時期での異動」と言われつつ上司との互いの自尊心と自意識を賭けた決定的な対決もないままに部下の僕が課を動かされるだけで職場には平穏は訪れる。
 「上司がクソ、俺には高尚な理想があったんだ」などと嘯いてその文脈を見出だせる考えに浸っていれば僕の自尊心は保てるし、上手く行けば酒の席などで理解のある同僚や同期にその高尚な理想という話に共感して頂ければ自意識ですら満たされ、僕の体裁は整い過ぎるくらいに整うのである。ここらへん、一発勝負の大学受験がいかに清廉であったかをまじまじと感じる。そのようにして整い過ぎるくらいに整った体裁という名のコクーンなんぞは、人をダメにするだけだというのは最近とみに感じることのひとつだったりする。結局はバランス大会になるやんか?という神谷の声も聞こえてくる。
 ドラマ版『火花』は又吉自身にとっても大きなモチーフだったであろう「マスにもわかるようなネタ」vs「徳永の信じる本当にやりたいネタ」という間で起きる揺れがスパークスの命運を決めていて、ここがドラマのストーリーにしっかりとした動きを作っていてハマり込めた。
 やっぱりこの『火花』って芸人としての又吉が、自分を取り巻く世界に対して抱いて考えてきた彼にとって引くに引けない絶体絶命なことをたくさんモチーフにしててそこがとにかくおもしろいし、トリガーだらけで、小説っていう「ただのお話」が「ただのお話」で終わらないようなリアリティを随所に感じ取れる。お笑いに馴染んできた大阪の人間なので余計にそう思うのかもしれない。
 劇中歌である斉藤和義の「空に星が綺麗」はとても印象的に使われているのだけど、「あの頃の僕ら今 人にあたまを下げて」っていうのは芸人として売れなかった後の人生に向けられた言葉だと4話くらいまでは思っていたけど、まさか売れかけた時に響いてくるとは思いもしなかった。

 こういうことを考えながらドラマ『火花』を観ていると、あんだけ外野に騒がれ、企業にコントロールされ、そして誰の目にも明らかな落ち目な時期がありながらも7枚のアルバムを作ったオアシスは凄いということになるし、レディオヘッドなんてメンバーすら変わってないし、『キッド A』はシングル切ってないし、そのツアーでは企業の広告を締め出してる、なんてことまでしてて、もうどういうことかわからなくなる。

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 『火花』を観ていると一番心が動くのは創作に打ち込む徳永の姿だ。ぶつぶつ言いながらノートにネタを書いていく徳永のシーンにとても心が動かされるのだ(それは僕がこの文章もノートに書いてからここに起こしてるということも関係している。僕は実際にノートに字を書くのが好きなのだ。ボールペンはuni の0.28かJETSTREAMの0.38。ノートはMDノートがベストやけどプリンターの用紙でも別にオッケー)。
 そして何よりも、食うことがかかっている、要は漫才師というのを仕事に選んで、10年以上も真剣に創作に打ち込んだという、この時間が羨ましくて仕方ない。
 神谷は芸人を辞める徳永に「淘汰された奴等の存在って、絶対に無駄じゃないねん」という一連の言葉を掛けるが(これはまるで人の死に対する心強い回答のようでもある)、もちろんこの台詞は個人的にもとても感極まるものがある。その神谷の台詞とは別視点から見ることになるのだけど、やっぱり徳永の10年は芸術とかそういうものに憧れてきた人間にとってはそれだけでとても羨ましい時間だ。この時間を僕は無駄とは思わない。どうしても思えない。そこまでサラリーマン根性に浸れない。
 大学卒業→企業への就職という流れをどこかで諦めながらもその流れを自分から断ち切ることが出来ずに「社会人、辛すぎるわ」とかつぶやきながら、やっぱりどうしても芸術や表現について捨てきれない想いを持っている僕みたいな人間にとって、徳永の芸人としての10年はあまりにも輝かしい。芸人としてやりきった徳永の人生の内の10年に一切の「残酷さ」はない。だから、最後に流れる斉藤和義「空に星が綺麗」はとても穏やかに徳永を包み込むように流れている。
 残酷さがあるとしたら、それは僕の方にだろう。何故ならまだ本気でやりきってもなく、棄てきれてもいないのだから。こんなに残酷なことはないだろう。