A Better Place To Pray

I'm singing out my revolution song like nothing else matters

2019年 1月 8日(火曜日)

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きょうは少し暖かくて天気良かったっすねー。

今まで結構オンライン上に日記を書くの失敗してきたけど、今日で三日目。なんか今回全然行けそうな気がする。

いずみのシャツ、オアシスですね。

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思わずツイッターに投稿しそうになった。

 

野菜炒めを作るのに肉がなかったので最寄りスーパーへ買いに行くと、店員が無言でレジをしてくれたことからの連関

近所のスーパー、仮にA店としておきましょうか、の昼間のレジの店員が嫌いだ。行くたびに嫌な気分になる。簡単に書くと機嫌が悪いというか態度が悪い。全員ではない。4割くらいだ。基本的に終始無言であってポイントカードを出しても受け取ってくれないし、いくら預かったかも言わない、釣り銭も投げるように渡す。なのでぼくも無言のままレジを済ます。いや、つい最近までは釣り銭を受け取る時に「ありがとうございます」と元気に言っていたのだけどもう心が折れたのだ。

そんなアナキーなレジ店員も袋詰めに関してはやってくれるのだった。しかし、これがまたレジが渋滞する原因でもあってウザい。それに基本的なステータスとして店員の態度が悪いのでその場を早く離れたいぼくとしては袋詰めの時間がこれまた大変にじれったいのだ。そんな感じならば行かなければいいのだが最寄り徒歩1分の利便には勝てないのだ。しかし、さすがに行かなくなってきた。

とは言え、「レジ店員に態度なんか求めなくていい」と思っている自分もいるのだ。大阪府で時給940円だかで働いている人に素晴らしい態度までを求めるのは酷な話なのだ。別にやりたい仕事でもなかろうに。もっとステキなワタシは別の場所にいるんですよ、的な。なのでその観点からは「近所のレジ店員の態度は全然間違ってはいない」とも言えるわけで、やはりそれは現代社会に向けたアナキーなレジスタンスなのである。

だけど、「ぼくの気分が悪くなるのはどうも自分の扱いが悪いからではないようだ」と気付いたのは徒歩8分のスーパー、仮にB店としておきましょうか、の店員さんがみんな優しくて「ありがとう」という言葉が心の底から本当の気持ちとして出てくることに気付いたからだ。

 

つまり、どうしてもA店の奴らがサボってるように思えるのだ。しかもそれはどうやら業務どうこうではない部分である気がするのだ。もっと手前のことというか。

 

そうなるとこれは根が深い気がする。ぼくのA店に対してのみの心象の問題ならばぼくが解決すればいい。しかし、同じ業務、同じ時給でまったくその態度のみ違うというのはもはや個人の問題ではないような気がするのだった。社会の問題……。核家族化の成れの果て……!なああああんて、大風呂敷広げないよ。

 

これはあくまでもぼくという人間の感性の問題だ、としておく。というか、どんな人間として他人の前でいたいかという問題で、やっぱりぼくは愛想が悪い、機嫌が悪いということを表に出してそれを他人にまで強要する人間を「悪」だと思っているのだ。しかも究極の悪だと。もう業務の話ですらない。それ以前の問題である。

レジをするのにスマホをいじるとか服装がどうそんなことをぼくはなんとも思わない。ぼくなんか、前にも書いたけど、職場のwi-fiNetflixを観ながら仕事をすることがあるんだから、そういう意味で緩い世の中になることをぼくは歓迎する。そう言えば、この前もM-1翌日のセブンイレブンで店員さんが品出ししながら各コンビの寸評を楽しそうに喋っているのを思わず聞き込んでしまった。

 

 

電車の話

電車に乗ろうと並んでいた。一番前に並んでいた。電車がやってくる。ぶっちゃけ座りたいわけでもなかった。電車が止まる、席が空いているのが見える、ドアが開く、人が降りてくる、それを待っ‥‥。後ろに並んでいた20代くらいの女が降りてる人をかき分けて乗り込み座る。そうなると、さほど座りたくもなかったのにも関わらず座れなかったこと、否、席を不当に横取りされたという感覚が生まれてきて無性に腹が立ってくる。人間ってまあ不思議です。

 

パン屋のチーズバーガー

行きつけのパン屋の新製品のチーズバーガーが美味い。260円。マクドダブルチーズバーガーくらい美味い。

 

恐怖を他人に与えることは何も生まない

今日、なんか関心した言葉。

 

追記

なんかめちゃくちゃミスチルが聴きたい。骨と肉のベスト盤。つーか、イノセントワールド。ゴーンが「I am innocent」と言ったってニュースで観てから頭の中で鳴ってやがるルルルルルルル。物憂げな六月の雨に打たれてー。

 

 

 

 

 

2019年 1月 7日 (月曜日)

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どこまで近付くことができるのか、なんて思いながら間をつめていきつつiPhoneを向けて写真を撮る。あまり邪魔をするのもよくないので「こんだけ撮れたら十分」と思ったので踵を返して離れる。結局、ぼくが動くに連れて身体の向きを変えども飛び立つことはなかった。これはアオサギだろうか。

 

  ポルノグラフィティ「メリッサ」

 

メリッサ

メリッサ

                                                「さあ錠の落ちる音で終わらせて」

このラインがこう聞こえる。

                                                「さあ城の落ちる音で終わらせて」

サッカーの城という選手が生卵を投げつけられたシーンが浮かぶ。続いて城が落城するのシーンも。

 

あと、こうやって書いていると、

                                                「さあ嬢の堕ちる音で終わらせて」

という解釈が浮かんでしまう。

キャバ嬢が結局金で客に抱かれる、風俗嬢が客にせがまれた本番行為で完璧にイカされて堕ちる、というなんとも言えない寝取られマンガのような猥雑な感情が湧いてくる。

 

メリッサ、むかしカラオケでよく歌ったなあ。

 

  早川義夫(2002)『たましいの場所』晶文社

 

たましいの場所 (ちくま文庫)

たましいの場所 (ちくま文庫)

 

 

  このエッセイを読んでいると「自分のことを素直に見つめる大事さ」に思い至る。そして、「自分を見つめることは自分を認めること」であると思うと、「個として生きる」ということへの具体的な実感が湧いてくる。自分という場所なのかなんなのかわからないけれど、内面というかこころというか、それこそ「たましい」というか、今ずっと動きっぱなしのこの感情の場所からなにかに触れたときの、気持ち、想い、それが「実感」というものなのだろう。それを誤魔化してはいけない。なにかを作る時には「実感」から始める必要が必ずある、という手応えがぼくにはずっとある。当たり前のことなのだけど、人はどうしてもそうはならないことをぼくは自分自身の経験で嫌なほど分かっている。

そう、人間というのは時に感じたことを検閲をもする。「こんなことを思うのは、不謹慎だ・カッコ悪い・馬鹿にされる」なんてことが過ぎり、無難さが優先され自分が個ではなく社会のようなところへ吸い込まれていく。会社でする会話なんてそんな会話ばっかりだ。社会の用意したテンプレートの切り張りの会話。マナーとか作法というのは、性格も様々な数多の構成員を抱える社会において個々人のコミュニケーションのストレスを軽減する「システム」なのだろう。度量衡の器や尺度を統一する的な。そこを統一しないと物事が滞るのだろう。要はそのシステムは最大公約数なわけで、つまらなくて当然ではあるのだ。はみ出す人が悪いわけでもないし、そういう人がいて当然なのだ。みんながシステムをインストールして稼働できるわけではない。ある集団から見てずっと枠外のような感じで生きてきたぼくにはシステムを内面化できない人に想いを寄せてしまう。

しかしそれでもどこかで聞いたことのあるようなツッコミとボケ、フリ、返し。みんなテレビの芸人のように気の利いたことを言いたくて仕方ないように話す。そんなことを書いてるぼくもそうだ。仕方がないのか。会社は社会の最前線で、社会を壊すようなシステムなんて推奨されないんだからその社会を構成しているシステムに寄せていればいい。「本当にそれでいいのか?」「それでいいのだ。」という自問の繰り返し。そのつまらなさにどうしても気が滅入る。更にそこで上手いこと話してやろうと、相手を関心させてやろうとしていた自分、つまり評価をシステムに預けようとした自分を思い出し、帰りの電車で気分が沈んでどんよりして車内が混んでることにイライラする。案外、内面化できてしまっている。権威に弱い。これこそ「汚れっちまった悲しみ」なのではないか。そして、悲しみは外部に転嫁され、車内の人間すべてが凡庸にしか生きられないテンプレ人間だと考えてしまってどんどん腹が立ってくる。iPhoneApple Musicで聴いてる音楽のボリュームを上げる。「テンプレ人間には分からねえだろ、この曲の良さは」なんて思ってしまっている。とてもくだらない不幸な話だ。

 

たましいを売らない。個として生きる。とても難しそうだけどぼくはそれにどうしても憧れる。もっと自分の実感から物事について考えていきたい。そうしてそれをたくさんストックして自分のたましいを満たしたい。そうして死んで行きたい。『たましいの場所』はぼくをゆっくりと感動させてくれたのだった。

 

『たましいの場所』はカバーがいいのでブックカバーをせずに持ち歩いて読んでいた。このわんこはエッセイに出てくるチャコなのだろうか。

 

 

 

『生きがいは 愛しあうことだけ』のカバーでも同じわんこが4羽の黒い鳥を目の前にして振り向きざまのようなポーズでナイスな表情をしていてたまらない。「なんなん、こいつら」みたいなアフレコがしたくなる。

 

心が見えてくるまで (ちくま文庫)

心が見えてくるまで (ちくま文庫)

 

 

あと『心が見えてくるまで』は嬉しそうに散歩をしている。

わんこ三部作なのだ。次は『生きがいは 愛しあうことだけ』を読もうと思う。カバーの織り込みのところで紹介されていた曽我部さんの『昨日・今日・明日』も読みたい。単行本をあまり読まずに借りっぱなしなのを思い出した。

 

 

2019年 1月 6日 (日曜日)

  ツイッターを辞める

ツイッターで百なんとかって人間が東アジアの国々に対してヘイトをそれなりに撒き散らしているのは知っていたけど、さすがに韓国への今回の件でぼくはキレてしまった。ああいう発言を何度もしているのに凍結等の判断を下さないツイッターにも大変に腹が立つのであって、百なんとかのアカウントが凍結されるまではツイッターを辞めようと思い、触っていない。

 

  満田拓也『メジャー・セカンド』

 

 

主人公の大吾を見ていると今の日本人のメンタリティーの典型のように思えてくる。それがモチーフなのではないかと思えてくるくらいに。

例えば、システムがよく分からない初見の店に行くとする。そこで分からないことを店員に訊くのではなく、なんとなくもじもじしてると店員が察して案内してくれる。客は「分かってた」という顔をして席に着く。ぼく自身はせっかちなのでそういうことはしないのだけど、そういう光景はよく見る。大吾の野球を辞めた感じがそれとオーバーラップする。

要は、かっこ悪くなれない、恥を出来るだけかきたくない。

何故そう思うのか。簡単な話で、この国の社会には物が溢れているのが当たり前のことだからだ。それを生まれた頃から当たり前に享受していると、分からないことは恥になるからだ。

君の消費行動がどうなっているか考えてみればいい。「個人の欲望というのは他人のそれから生まれる」「男の願望がアイドルやグラビアアイドルの外見の流行りを決める」という基礎知識でもって見つめ直してみるといい。

 

「え?そんなことも知らないの?」

 

そう言われることをみんながとても怖がっているから、情弱という言葉は広まったのだろう。

情弱は進化した。ぼくたちの内面へと更に一歩踏み込んでくる。「コスパ」という言葉で。

コスパ」という言葉は怖い。ただ情弱でいることでは済まされない表現である。情弱に何かがプラスされている。なんだろうか。より能動的な態度を求められるというか、自己責任感が増すというか。

「常に相対的な何かに曝されていて損切りをして生きている」という、HP(体力というか存在そのもの)やMP(精神というか内面)を摩耗していくような気配をぼくは「コスパ」という言葉から感じる。要は、せせこましいのである。

 

話が誇大妄想化してしまった。しかし、観たり読んだり聴いたりすることはどんどんなにかの考えが生まれるということではないか。対象からどんどん離れても別にいいのではないか。だからおもしろいのではないか、観たり読んだり聴いたりすることは。

メジャーリーガーの2世で野球に関して素晴らしい環境があるにも関わらず、それが故に周囲の目を気にするあまり内面化し過ぎて野球に対してどうしようもなくなった大吾。彼の対になっているのが、これまた2世で帰国子女の佐藤光であり、その性格は大変に対照的だ。なのでぼくはそういう妄想が捗るのだ。

って、まだ二巻までしか読んでないんだけど。でも、実のところ内省的でせせこましいやつはキャッチャーに向いているのではないか。

 

  早川義夫(2002)『たましいの場所』 晶文社.

 

たましいの場所 (ちくま文庫)

たましいの場所 (ちくま文庫)

 

 

「別に僕の過去が輝いていたわけではないが、時々、過去の歌を評価されると、もちろん、嫌ではないけれど、必ず今の自分に突き当たる。」p.184

 

 

  マルクス・ガブリエル(2018)『なぜ世界は存在しないのか』講談社

 

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

 

 

「つまり数多くの小世界は存在していても、それらすべてを包摂するひとつの世界は存在していません。これは、数多くの小世界がひとつの世界にたいする多様な視点にすぎないということでは断じてありません。むしろ数多くの小世界だけがーまさしくそれらだけがー存在しているということにほかなりません。それらの世界は現実に存在しているのであって、わたしの想像のなかにだけ存在しているのではありません。」p.20

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

働けTSK

誰かに突発的なトラブルがあるとお役目が回ってくるようなポジションに僕はいる。仕事の話である。それだけ僕は融通が利く人間で、それはつまり僕は故あって時間については比較的に自由な暇人なのである。4連勤という今の僕からするとなかなか無いような連勤シフトを終え、明日からの三連休というその解放感に喜んで帰宅しハンバーグをグリルで焼いていたらLINEで代打要請の連絡が入りそれを受けたので三連休は単なる連休に変わってしまった。火曜日が仕事になってしまったのだった。火曜日が仕事になると水曜日と連勤になり木曜日は休みなのだけど忘年会がある。そして金曜日と土曜日と仕事。なんだか来週は5連勤が待っているような気分にどうしてもなってしまう。そんな気分でもハンバーグは美味い。仕事になったところでどうせ座ったまま本を読んだりスマホを触ったり喋ったりする時間が大半を占める比較的楽な仕事なのだ。それが証拠に一番疲れるのは通勤時間の40分だったりする。金曜日にはパワプロのガチャを20連回したくらいだ。Wi-Fiもあるので暇が極地を迎えるときにはイヤホンをして、TVerNHKの特選動画、Netflix、そしてAmazonプライム・ビデオを観る。この前はNetflixメジャーセカンドを6話分と見逃した科捜研の女TVerで一気に観た。今日はECDさんの『ECDIARY』をしっかり読んだ。僕の一回の勤務での労働時間は7時間だ。出勤時間は朝の11時からなので前日の深夜1時に起きていても余裕で7時間睡眠が確保される。いつも8時間は寝ている。それでも眠いのだけど。18時まで働いて19時に帰宅する。そういう仕事をして今の僕は生活している。今の僕には仕事というのは生活の中心にはないのだ。出勤の憂鬱さなんかない。僕の感覚としてはスーパーへ買い物に行くことや皿洗いと洗濯が生活の中心にあるような気がしている。それらは仕事より骨が折れるし憂鬱になるのだった。

 

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ここを誰が読んでいるのか知らないしツイッターで散々書いていることだけど、最近ずっとECDを聴いている。植本一子の『働けECD』から『かなわない』くらいのころにリリースされた『Don’t Worry Be Daddy』と『The Bridge』と繰り返し繰り返し聴いている。完璧にやられてしまって僕は私服で働いているので出勤するのにもニューエラを被っている。『FJCD-015』は半分くらい聴いたのだけど、「ECDのジャスト・ア・フレンド」が最高過ぎて何回も聴き過ぎているのでまだ『FJCD-015』は聴き込めていない。「日本語のラップなんて…(自主規制)」ということを言った僕は大馬鹿クソ野郎だった。『Don’t Worry Be Daddy』に入っている「家庭の事情」が今の僕のアンセム。「やめられねえECDこの名前」ってラインがたまんない。オアシスの「俺は俺自身である必要がある」超え。年末までにまた心斎橋のニューエラ行って新しいのを買おうと思ってるくらい。幸せだなあ。

 

「吸い込まれてく踊りの輪の中へ 気がつきゃいつの間にか櫓の上 音楽自分変えた瞬間だ そこから始まったありゃなんだったんだ」

 

8月11日 土曜日

エストから阪急の駅の横断歩道は青信号になると戦国時代の合戦のように両側から人が一気に歩いてきて交わる。ここを歩いていると、大体誰かとぶつかりそうになる。

きょうは目の前を俺と同じ方向、梅田駅に向かって歩いていた男が前からきた男にぶつかった。明らかに前から来た男の確信犯というかもう避けるという事をしていないぶつかりだった。

ここを超えても今度は改札に向かうエスカレーターに乗るのに人の流れを読まなくてはいけない、大体エスカレーターの前は俺と逆方向のエストに向かう人たちがだーーっと蟻のように列を歩いているのでこれを突っ切ってエスカレーターに乗らなければならない。これは大縄跳びを思い出す。なんだったら、エスカレーターの反対側にある喫茶店、店員の制服がメイドメイドしててそれだけで入る価値のあるような気がしてくるピエロ・ド・ピエロに入ってやろうかと思う。というか、あそこで客引きやってるやつらウザすぎ。うんこぶりぶりウザすぎ君だ。

という、個人的に退勤から家への道のりで最も憂鬱な地点がエストからエスカレーターであって、退勤30分前の歓喜がたまにこの憂鬱に呑み込まれ帰りたくなくなることまであるのが最近の生活における悩みの一つです。でも、エストの中歩くのは大好きです。

8月10日 金曜日

運転免許というのを持っていないことを本人としては気にしていない、がしかし、社会というのか、そういう個人を抑圧するような「何か」から運転免許のことを考えさせられることがある、とういうことを、阪急電車に乗って「八月の光」を読んでいて思う。

環境に考えさせられるということがある、本人としてはあんまり問題とは、というか意識すらしていないのに、環境が「それは問題があるんじゃないか」と本人に意識させることがある。

なんだかそういうことが増えてきた気がする。というか、簡単に言うと「それでホントにいいの?」ということを何かの瞬間に思うことが増えた、ということなのだけど、そういうことも結局は別にどうでもよくなるのであって、自分のことを対社会でものを考えるのはホントにくだらないな、で着地する。大真面目に人生とか言ってるんだけど、それは社会化されたものでしかないのにとても個人的なこととして語る、みたいなのが俺にはどうしても苦手だ。広告みたい。