A Better Place To Pray

I'm singing out my revolution song like nothing else matters

Cat Named Sally

 「愛というのは、用意された無限の選択肢から私が主体的に選択したからこそ芽生えるものでなく、ただの時間の経過の産物なんじゃないか、特にその深度は時間という係数が大きいのではないか」
「でも、物理学者なんかは数学的に時間は人間の幻想だと平気で言ってるし」
「要は存在するのは物理法則に則った変化でしかない」
ビッグクランチが起こると時間の向きは逆になる、つうか今の向きが逆かもしらんよ」
「ていうか、俺が考えている愛というのは愛着のことなんじゃないか、でも愛着は愛と同義なんじゃないか、で、それで何が悪いんだ」
「どうしてASKAは、はてなでブログやってるんだ?設定はいじらないのか?」
「お願いだ、こういう変な天気は勘弁してくれ」
「というわけで動画を御覧下さい」

 と、それらを、猫、阪神タイガース、おから、ノロウイルスは細胞膜がなんとかだからアルコール除菌では死なないのは衝撃だ、存在としての満島ひかり、などということと繋げながら近所の喫茶店と散髪屋とスナックばっかりの死にかけた商店街を歩いていた火曜日、ペット可の喫茶店のガラスドアの前にキジトラの体格のいい猫がドアに向かって中を覗くように座っていた(ここで言う「座っていた」は、猫背の状態に猫がなるあの座り方だ)。猫のあの体勢は本当に座っているのだろうか。

 にしても、あの円錐形というか水滴みたいな腹がどっぷりしてて柄がしっかり見えるあの後ろ姿のフォルムは素晴らしいな……、と思った。
 猫の後ろ姿というのはなんとも言えない良さがある。「So Sall Can Wait/ She knows its too late / As were walking on by」というオアシスの「ドント・ルック・バック・イン・アンガー」ラインが流れる。あまりにも遅すぎたのを猫は知っている。
 特に前肢の、人間で言う肩甲骨による凹凸が、なんとも猫という近付けば近付く程に謎が増える存在を唯一しっかりとこちら側に担保していてくれている気すらしている。漫画家のくるねこさんの絵は、その肩甲骨の凹凸が描いてあるから好きになったのをペット可の喫茶店を覗くキジトラの方を見ていて思い出した。冬の天気予報が他の季節よりも俄然気になるのも、外の猫の方たちのことが心のなかにあるからだというのも思い出した。
 首輪はないが耳に楔形のカットが入っているので奴は地域猫の方だ。必死でというか、こっちがチッチッチとかやってもやつはモゾモゾと後ろ足を動かすだけでペット可の喫茶店の中をガラスドアから見るのを止めようとしない。見えているのだろうか。見てるのではないのだろうか。聞いているのかもしれない。よくわからない。やっぱり素晴らしいな。So Sally Can Wait.
 お前、そこはペット可の喫茶店なんだぞ。

(It's Good)To Be Free

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 音楽批評は、具体か抽象のどちらであるべきなのか?音楽それ自体を人は聴けるのか?とかめちゃくちゃつまらないことにTwitterで反応してしまっていた月曜日は、仕事でJR吹田駅界隈へ行った。アサヒビールの工場の側へ行ったので北側だ。南側はよく知っているのだけど、北側はまったく知らない。初めて来た。

 吹田は市外局番が06で始まるので大阪市っぽいんだけど、自転車のマナーは大阪市のそれだった。歩道で歩行者を避けない&スピードを緩めない自転車が目立つのはやっぱり大阪市らしい風景で、前から気になってた「これ、俺が避けなかったらどうなるんだろう?轢かれるのか?」という考えが不意に浮かび、避けずにそのまま「おばちゃんが前から来てるの気付いてないんすよー、アサヒビールの工場を珍しげに見てる、余所者です!」っていう態(工場は実際のところしっかり見たかった、なんか道路に渡り廊下みたいなのがあるし)で歩いてたら、やっぱりおばさんは避けずに、俺の目の前で止まって、俺はおばさんから殺意のこもった視線をいただくことになってしまった。
 「こういういけずみたいなつまんないことしちゃいかんね」と思ったので俺は「すみません!」と言ったんだけど、おばさんに芽生えた殺意は消えてなさそうだった。芽生えた殺意は何処へ行くのだろうか。レジの店員さんとか家庭内だろうか。バタフライ・エフェクトだ。
 目の前に交番があるのに、歩道を逆走してかっ飛ばし、歩行者を避けない自転車は後を絶たず。すげえな、吹田市

「にしても、なんか学生風情がたくさんいるな。学生らしく歩道に広がってゆるゆる歩いているのは何だ?彼らの存在がチャリの方をイライラさせて交番の前で逆走してまでかっ飛ばさせているのではないか?」
「いや、チャリの方がイライラしてるのは格差社会のせいだよ」
「そう、先進国で格差は広がっているが、グローバルな視点だと、先進国の中産階級第三世界の格差は、先進国の中産階級が雇用を第三世界に奪われるという形で狭まっている」
「なら、やっぱりこの国で日常的にチャリに乗ってる私たちみたいな奴らは割を食ってる人たちじゃないか、なんかイライラしてきたぞ」
「トランプが当選するはずだよ」
「つうか、きょうはめちゃくちゃ天気いいよな」


と思いながら歩いていると(何故かひたすら坂が続く)、団地が削り取られたみたいな立地に大学と阪急オアシスとカフェがあった。どれも新築感が凄いんだけど、大学の奥、つまり北側には古い団地がずっと続いていて、このコントラストはとても不穏だ。時空が捻れている。
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 大学は小規模のキャンパス特有の部外者を拒む感じがあって(夜や日曜日は門が閉まって自由にキャンパス内へは入れないんだろうな、という感じがした)さすがに入れなかったが、とにかくアサヒビールの工場を観察しようと、来たときの東側ではなく、西側から工場へ接近を試みていると、神社があった。
 そこにはもう2017年の正月が来ているらしく「初詣」とか「新年」という派手な幟が30本くらいあった。ちょっと新興宗教かと思ったけど、普通の神社だろうな、と思い直し、でも境内に入りはしなかった。神社が幟で参拝者を歓迎しまくっている感じに引いてしまったというか。その歓迎しまくっている感じが罠みたいで新興宗教っぽさを感じたというか。それでも、2人くらい女性の参拝者が出入りするのを見た。

Let There Be Love

死んでも心のなかで生きている、という文句があるけども、それがどういうことなのかよくわからないと本気で思ったのが11月4日だった。10年弱もいつもずっと生活をともにしてきた猫が突然に亡くなるというのは、「死んでも心のなかで生きている」という概念がまったく的外れにしか思えないのだった(もしかしたらそれは何か社会の側からの「死」というものへ人の考えを向けさせないようにするコードなのかもしれない、とすら思っている)。
何故なら、死んでも明らかに心のそとで生きている、としか僕には思えないからだ。
で、恐らく一般的には、そういうことを思っている人間を「狂っている」「おかしい人」、控えめに言って「変わってる人」と言うんだと思う。

それは幽体が見えるとかそういう「即物的な」ことではない(まあでも実際に見えるんだけど。それはケータイのバイブレーションが作動してないのに作動したように感じてしまうのと同じ現象という意味で猫が部屋で寝床にしていた場所では「見える」)。
例えば、本を夢中に読んでいても急に部屋の物音に集中するその癖は猫のためのもので、猫が亡くなってからもそれは続いている。耳は猫のあの肉球から生まれる柔らかな「トットット……」という物音を探している。他にも部屋の物の配置はこの10年、すべて猫の動きに応じて置かれ、スマホや本やレコードを放置して部屋を離れるときは、絶対に猫が近付かないところに置く。
猫が死んでも僕のそれはそのままだ。
こういうことがたくさんある。となると、どうにも「心のなかで生きている」とは思えなくて、明らかに「心のそとで生きている」としか思えない。
猫が僕や家に開いた時間や空間や手触りはまだ全然開いているし残っている。

死んでも全然終わってくれない。
その「終わってくれなさ」に僕はあたまを吹き飛ばされそうになりながら過ごしていたのだけど、徐々にそれが「終わってくれなくていいんだ」と思うようになってきた。
それを思いながら毎日猫のために祈っている。
毎日、祈る対象があるのはいいことだとすら思っている。
それは毎日猫にご飯をあげることと何が違うのだろうとも思っている。

「A Better Place To Pray」というのはオアシスのブートレグだ。
95年から96年にかけてのノエルによるラジオ番組での弾き語り音源が収録されていて、ひたすら「ドント・ルック・バック・イン・アンガー」と「ワンダーウォール」と「キャスト・ノー・シャドウ」が続き、一曲だけ入ってる「マスタープラン」に「お!」と思えど聴けば音質が死んでいる、という恐らくマニア向けの資料的なブートレグだ。というか、こんだけ何回も何回も同じ曲をプロモーションとしてやるってのは、実際問題として大変なんだろうなということを、このブートレグがほぼ前述の3曲の繰り返しなのを聴いてるこっちの気分から少し邪推してしまう。

ただタイトルとジャケットに引かれて久しぶりにブートレグを買ってしまった(このタイトルがどこからの引用かなんて書かなくてわかるだろう)。オアシスのブートレグはこれで20枚になった。
10年前、大学生だったときに初めて買ったブートレグはオアシスの6枚目のツアーの音源が収録された『Bring It All Back Home』だった。次が『Don't Believe The Truth Sessions』だった。
僕は6枚目でオアシスと出会い、6枚目のオアシスに夢中になったのだった。

僕はオアシスが好きだ、ということも猫が死んでわかったことだ。再確認とかでなくて、初めて「俺はオアシスが好きだ」とわかったし、心からオアシスの音楽を楽しんでいるのだと思う。それまでは限定的にオアシスが好きなだけというか、あくまでもこっちの物差しに合うオアシス像を拵えていただけだったような気が『BE HERE NOW』のデラックス盤を聴きながらしている。

その証拠にボーンヘッドがオアシスのデビュー当時からずっと完璧に禿げていることに写真集を眺めていて初めて気が付いた。
これは凄い。スーパーバンドのギタリストが禿げている。
それもデビュー当時からずっと。しかもあれは典型的な禿げ方で、言い訳がまったくきかないガチのやつだ。
「普通、レディオヘッドのドラムみたいにスキンにするんじゃないのか?」
「いや、そもそもがデビュー当時から禿げているとはどういうことなのか??」
「つうか、俺ならどうする?」
と詮索が進むのだけど、ボーンヘッドと堂々と名乗り典型的な禿げあたまでスーパーバンドのギタリストをしている。まるで吉本新喜劇の「世間での弱味は笑いでは武器になる」の世界みたいだ。(こんなことを書いていてお前は本当にオアシスが好きなのか?)

冗談はさておき(冗談じゃないんだけど)、猫の世話をさせて頂いていた時間がごっそり無くなったのは確かなことで、時間があるのでTwitterを開くと聴きまくっているオアシスの話をついつい捲し立ててしまうので、ブログをしようじゃないかということが本題でしかないし、まあ、多分来週には飽きてるんだろうけど。